2019【秋】号(№107)では、経ヶ峰1号墳の位置・調査のようす・外形および外部施設について述べた。そこで、家形埴輪を囲む状態で、囲形埴輪が出土という外部施設の特色を紹介した。今回は、内部構造である竪穴系横口式という、特異な石室に注目してみる。(図1の4と図2)


図1 岡崎のおもな古墳の分布図

図2


内部構造


この古墳の埋葬施設は、後円部の墳頂に築かれた竪穴式石室(図3)。石室の長軸は墳丘の主軸より約18度西にふれている。盗掘によって天井石は失われ、側壁の石材もかなり抜き取られている。各壁は花崗岩の割石を数段積み上げ、すき間を小礫で埋めている(写真1)。石室は長さ3.8m、幅は南東側で1.25m、中央で1m、北西側で0.8m。床面には径3~15㎝大の扁平な川原石を用いた礫床が設けられているが、北西側にはやや大形の4個の扁平な割石が敷かれている。この4個の平たい割石により、この石室では入口から、階段を1段下りて礫床に入る。今までの竪穴式石室は、ほとんど垂直な壁面であるから、棺の置かれた石室に入ることは困難であったが、1段のステップのおかげで棺に近付くことが容易になった。


図3

写真1 上部が入口


古墳時代前期では、竪穴式石室であるから、一旦石室を閉じてしまえば、次に同じ場所に棺を埋めることは不可能であった。古墳時代後半、横穴式石室になると、後からの死者を同じ石室に葬ることが可能になり、複数の棺が葬られる古墳が出現した。経ヶ峰1号墳で追葬されたかどうかは定かでないが、追葬のできない竪穴式石室から、追葬が可能な横穴式石室に移る過渡期の特異な形式が、経ヶ峰1号墳であると言える。
このような特色のある竪穴系横口式石室は、福岡市南区にある老司古墳のように北部九州で盛行し、三重県志摩市のおじょか古墳にも、その傾向が見られると言う説がある。北部九州から、三重県志摩市、そして岡崎へとの伝播の道筋を考えると、志摩半島から、知多半島と渥美半島の間の伊良湖水道を通る海のルートを想定することができる。


西尾市天竹町の天竹神社での綿祖祭は、綿を伝えた新波陀神を祭る祭礼。伝説では、延暦18年(799年)に崑崙人(天竺人)が綿の種をこの地に最初にまいたことから、木綿の発祥地とされている。この祭りでは、海を渡って伝えられた綿にちなんで船みこしが担がれ、古式ゆかしい「綿打ち」の儀式もおこなわれる。綿神様を祀る神社としては全国唯一のため、木綿関係者の崇敬もふかく、祭りは多くの人でにぎわう。
要するに、江戸時代に名産品であった三河木綿のルーツは、古代の海のルートと関係があったということだ。実際、西尾市吉良町にある古墳時代中期の前方後円墳である正法寺古墳に上ると、三河湾の眺めが抜群!左からの渥美半島と右からの知多半島の間には、神島が見え、天気の良いときには、その奥にはうっすらと志摩半島を臨むことができるから、海のルートを体感できる。

しかし、この経ヶ峰1号墳は、石室の上半分が失われているため、現状では開口部の有無はたしかめられない。もし仮に開口部が設けられていたとしても、複数の遺体を埋葬することが可能な横穴式石室とは、形態的にも構造的にもかなりの隔たりがあるという考えもある。
礫床は原形が崩れていたが、ところどころに断面U字形のくぼみがみられ、礫床に置かれていた棺は割竹形木棺であったと推定される。また、礫には水銀朱の付着したものもあり、胡麻粒大の朱塊も検出された。
石室の遺物は盗掘によってほとんど持ち去られていたが、埋土中から管玉3点と鉄剣、刀子、鉄鏃、金銅製金具などの残欠が検出された。ほかに鉄斧1点が南東壁沿いの床面から、轡金具と鉄鏃1束(約20本)が北西壁沿いに遺存していた。
石室は南東側が幅広くつくられ、検出された管玉も南東側の埋土中から出土していることから、遺体は頭部を南東に向けて埋葬されていたものと推定される。

石室内の遺物


鉄鏃(矢じり)、鉄刀、刀子、剣、鉄斧、頸甲、馬具、管玉(碧玉製)


墳丘上の遺物


須恵器(図4 第1型式【5世紀後半】櫛描波状文が目立つ)、土師器(須恵器第1型式に並行する時期のもの)、円筒埴輪と形象埴輪(写真2、№107でも図示)、赤色と青色の顔料が塗られた痕跡が見られる盾形埴輪(写真3)
というわけで、経ヶ峰1号墳は、全長35mの帆立貝式の前方後円墳で、5世紀後半につくられた中期古墳と言える


図4

写真2 形象埴輪

写真3


岡崎市文化財保護審議会委員

山田 伸子