かゝる時節には
かゝる時節には、人口区々にして、父は子を疑ひ子は父をうたがふ
近ごろの様な定めない時代には、人様はいろいろなことを言うようで、そのために父は子を疑い子は父をうたがうようだ
奥平貞能は、戦国の武将親子のあり様を、このようにいいました。しかし貞能は疑うばかりか、父親貞勝の意向を無視し敢然と叛くことになります。
奥平氏の発展
新城市作手地区を本拠とする奥平氏は、四代貞勝の時代の天文年間(1532~54)には三河平野近くまで進出し、岡崎市額田地区を領域の一部とする大きな勢力を築きました。貞勝は天文年間の二十数年にわたって奥平氏の勢力を飛躍させますが、それは当時三河に進出していた駿河の今川氏の忠実な家来としてでした。
五代貞能は父貞勝が満二十五歳の天文六年(1537)に生まれました。貞能が二十四、五歳になった永禄四年(1561)頃には、貞能は貞勝から家を譲られ奥平家の当主になったようです。貞能もしばらくは、勢いを失った今川氏に従っていましたが、永禄末年からは徳川氏(家康)とこの頃から新たに北方から進出した武田氏(勝頼)とのはざまで帰趨に苦しむようになります。元亀元年(1570)に貞能は武田氏に従いますが、それは奥平氏内部の武田派に配慮したもののようで、自身は徳川陣営への意向を持っていたようです。
貞能の決断
天正元年(1573)八月にいたって、事態は急展開します。決断した貞能は、父貞勝はじめ一族の意向を確かめることなく、その日の夜徳川氏の援軍を迎える手はずを整えます。家康に好を通じた貞能を疑った武田氏家臣は、当時長篠城攻めのための武田氏陣営のあった黒瀬(新城市玖老瀬町)に作手に居た貞能を招きます。そこで武田氏家臣から離反を究明された貞能は、武田氏への反逆の意志をおくびにも出しません。なお時間稼ぎのために引きとめる武田氏家臣らの疑いを打ち消すために、囲碁に興じ湯漬の食事までゆっくりと済ませて作手に帰りました。作手に帰っても、依然その挙動に不審を抱く武田氏家臣の来訪を受けますが、ここでも風呂に誘い酒肴を共にして、武田氏家臣を安心させることに成功しました。
その夜、貞能はなお逡巡する子の信昌(当時は定昌)らの決断を促すように、徳川氏の援軍に加わるために自身の妻子等のみ先駆けとして南を目指して作手を退去しました。これを聞いた貞勝は、このような行動はあらかじめ相談があるものだ、まったく知らされていないと大変怒り、武田氏の援軍を得て貞能を捕らえようと後を追いました。結局貞能の退去は成功しましたが、この時に奥平氏は武田派と徳川派に分裂しました。子信昌は父を追いますが、貞勝や貞能の弟常勝は武田氏の陣営に留まりました。一方、貞能はこの結果、子の信昌に家康の子亀姫を迎えることになります。さらに信昌には長篠城が与えられ、のち新城城を得て徳川譜代大名の一角を占めることになっていきます。
滝山合戦
南を目指した貞能親子は滝山城(岡崎市宮崎町)に立て籠もることになります。滝山周辺の宮崎郷は、奥平氏の第二の拠点でした。八月二十一日、態勢を立て直した武田勢は五千余の軍勢で、作手から滝山城に襲いかかりました。わずか二百の手勢で滝山城を守り(滝山合戦)、さらに滝山城の東側でやはり作手への通路である田原坂で多くの武田勢を討ち取り、勝利することが出来ました。作手方面の武田勢を払拭した奥平氏は、翌天正三年(1575)の長篠合戦の勝利に寄与しました。(以上主に『寛政重修諸家譜』奥平)
滝山城と宮崎郷
さて、滝山城は岡崎市宮崎町の滝山の山頂一帯を指します。南側山麓の明見町万足平からは、比高が240メートルにも及ぶ屹立した山容を見せてくれます。貞能がわずかな手勢で、武田の多勢を追い払った様にホントに違いないと納得する立地です。万足平には、滝山合戦のよすがを伝える「三つ石」があります。
滝山城には、主郭(本丸)の北東に現在も立派な堀切が残っています。それは、北側の尾根道に向けて構えられています。作手から南側に向かい滝山城に至る尾根道は、現代人には辟易するほどのアップダウンがありますが、当時の人々には普通の山道であったと言われます。作手と宮崎郷を結ぶ主要な道の一つでした。
滝山合戦当時の滝山城は、「たゞ、柵一重をむすびて、いまだ塀をも構えざる間に」とあります。奥三河の城郭は、長篠合戦以後に多くが改修されたと見られるので、滝山城の堀切もこの後の構築と思われます。しかし、滝山城は奥平氏親子の命運を分けた戦場でした。
※この記事は2011年01月10日時点の情報を元にしています。現在とは内容が異なる場合がございます。