西端藩の成立と廃藩


 江戸時代も終わりに近い元治元(1864)年、碧海郡西端村の名を冠した石高一万五百石の小藩西端藩が成立した。
 それまで九千石の大身の旗本であった本多忠寛が加増を受け、一万石を越えて大名の列に加わったのである。
 忠寛は、慶応2(1866)年病のため隠居し、嫡子忠鵬がわずか10歳で西端藩二代目藩主となるのである。
 ところが、時は幕末維新の混乱の真っ只中、時代の波に翻弄されながら、明治4(1871)年の廃藩を迎えることになる。忠鵬15歳の時である。
 ものごとの判断も十分にできない10代前半に藩主の座にいた忠鵬はどのように対処したのであろうか。


西端領主・旗本本多氏の初代は西尾城主の二男


西端藩 藩札

 西尾城主本多康俊の二男忠相は、大坂夏の陣に、父康俊、兄俊次とともに二代将軍秀忠に従って出戦し戦功をたてる。その行賞として、元和2(1616)年、はじめて碧海郡西端村(現碧南市)828石、城ヶ入村(現安城市)172石、合わせて高千石の領地を与えられ、本多氏による知行の基が開かれた。西端村に領地を得たが、旗本として江戸住まい、江戸城勤務であった。
 その後、下総国・上総国(現千葉県)、碧海郡、武蔵国(現東京都)で加増を受け、8千石の旗本となった。
 二代目忠将は、天和2(1682)年、下野国(現栃木県)、上野国(現群馬県)で千石を加増され、合せて9千石となり、幕府旗本中で筆頭の序列となった。
 以後、略系譜にみるように、九代目の忠興まで9千石の知行がつづくのである。


十代目忠寛 大名に取り立てられ初代西端藩主に


 忠興の後を継いだ忠寛は、嘉永六(1853)年、ペリーが来航すると、家禄が万石に足りなくても藩屏の任を担当して羽田表品川台場へ出兵した。  さらに、元治元(1864)年、水戸天狗党の乱が起こると、忠寛は志願して鎮圧に参加した。この役の行賞として、同年12月新たに伊豆国で950石が加増され、合計1万500石余となって、大名の列に加えられた。藩名は本多家が最初にたまわった領地西端村の名をとって西端藩とされた。

忠鵬 10歳で藩主の座に

 慶応二(1866)年、父忠寛の隠居により、忠鵬は十歳で家督を相続した。この頃の国内は勤王佐幕論の煮えかえるような騒ぎの真っ最中であった。  翌慶応3年10月には大政奉還が行われ、忠鵬も年少の大名とて、家臣に諮問の上進退を決せざるを得なかった。尾張藩の如き親藩でさえ、勤王方に転身して、西端藩へも勤王を勧説した。忠鵬は家臣の勧めもあって、慶応四(1868)年2月、勤王尊奉の証書を出している。  同年4月、忠鵬は江戸の形勢危いと見て、家族、家来の大部分総勢118人の一隊で、品川からイギリスの蒸気船に便乗して大浜港へ上陸し、西端村へ移住した。西端藩といいながら、藩主以下家臣が西端村に住んだのはこれが初めてである。一行は、西端陣屋や応仁寺、庄屋宅等に分宿した。  忠鵬は着村早々領内5か村の庄屋に命じて農兵を募集し、家臣を西尾藩へ通勤させて武術、特に洋式調練、銃砲操法を学ばせる一方、旧字調練の松林を伐り開いて練兵場を設け、応募してきた農兵に洋式調練を習技させた。  この年(明治元年と改元)9月、忠鵬は京都へ上洛し天皇に伺候し勤王誓約の旨言上してきた。翌明治2(1869)年6月、版籍を明治政府に奉還すると、忠鵬は西端藩知事に任命された。忠鵬は住んでいた陣屋の南隣の民有地を買い上げ、そこに藩庁(後に県庁)を建造した。  明治4(1871)年7月、廃藩置県令が布告され、西端藩は西端県の名に改まり、忠鵬の西端藩知事も西端県知事に改められた。同年11月、県治条例が発布され、西端県は廃止になり額田県に組み込まれることになった。県知事忠鵬も免ぜられて東京府貫属になり、上京して小石川の元の屋敷に住むことになった。


本多忠鵬公作筆漢詩屏風 明治28年(死の前年)の作

本多公の脇差(個人蔵)


藩主→藩知事→県知事→子爵


本多忠鵬公墓(碧南市の康順寺)

 これで忠鵬も明治政府の一官吏に転身し、華族に列して子爵に叙せられたが、経済的にはあまり厚遇を得なかった。明治二八年病気になり、西端村へ来て療養生活を送っていたが、翌二九(一八九六)年、名古屋市愛知病院で三十九歳で没した。そして栄願寺で葬儀を行い、後康順寺へ埋葬した。
 激動の時代に十歳で家督を継ぎ、わずか五年の間に藩主→藩知事→県知事→子爵とめまぐるしい人生であった。忠鵬の遺品として、旧家臣長谷川氏宅に忠鵬作筆の漢詩屏風が遺されている。忠鵬死去の前年に詠まれたものである。内容は、武士の時代を懐かしむものとなっていて、転変の人生を送った忠鵬の気持ちがうかがえる。


資料『明治村史 上巻 下巻』『碧南市史 第二巻』碧南市史料 第六一集『大橋家寄贈文書(一)』碧南市史料 第六二集『大橋家寄贈文書(二)』


碧南市史資料調査員

杉浦 明