若一神社

 松平親氏のあとを嗣いだ泰親は親氏の弟、または子であるという。「松平氏由緒書」(『松平村誌』)では、泰親は親氏とともに諸国を遍歴し、八橋(知立市)に逗留していたのを親氏が松平家に婿養子で入った縁で松平に呼び寄せたという。親氏の子である信光の名代として松平の屋敷を取り仕切ったとされる。

岩津進出

 泰親については岩津城奪取が最大の事蹟であろう。『三河物語』では次のように記述する

松平郷を出て、岩津に城を取らせ給ひて、居城としてお住みになった。その後、岡崎に城を取り給ひて、次男に譲り、岩津の城は信光にお渡しになった。

 簡単な記述で、城攻めの状況について記していないが、『三州八代古伝集』には詳細な記述がある。同書によれば、松平より矢作の市場へ通う山道に山賊が出て往来する諸人を悩ました。これは親氏に討たれた薮田の残党で、岩津城主岩津大膳に依拠しての行為であった。これに対して泰親は、悪行を働く者を扶持する岩津大膳を退治することになり、8月15日の満月の夜に攻めかかり、大膳は切腹、泰親は松平から岩津へ引っ越したという。
 この『三州八代古伝集』は、大膳が風流を好み明月に遊宴で泥酔したところを攻めるなどリアルな記述には信憑性に疑問があるが、われわれの想像をかきたて興味あるところである。岩津に移った泰親は岩津城を修復して居住し、本城のほかに六か所の砦を構え、「岩津七城」と言われたという。

泰親の活動時期

 泰親の岩津城攻略はいつ頃のことであろうか。『三州八代古伝集』には年代を一切記さないので判然としないが、その年代を推しはかる確実な資料が岩津城の近くにある若一神社の棟札写である。この棟札写には応永33年(1426)12月13日、泰親によって当神社が造営されたことが記されている。これにより岩津進出が応永33年以前であることが明らかになった。この棟札写は幕府の記録にも記されず、江戸時代の諸書にも記されない新しい発見で、新行紀一氏により、親氏・泰親の活動が伝承とされるなかで歴史的事実としてその実在と活動が確認できるものと評価された。これにより、松平親氏・泰親の活動時期は14世紀末から15世紀前葉となる。松平氏の発展を考える上で貴重な資料といえる。

岡崎城入手

 岩津城の小高い城跡からは岡崎方面の三河平野が一望できる。岩津城を入手した泰親が次なる標的を岡崎城においたというのも理解できよう。『三州八代古伝集』などによると、泰親は岡崎城主西郷弾正左衛門を攻めようとするが、瀧山寺・真福寺の仲介により、後嗣が早世した西郷氏の娘に泰親次男である小次郎を婿に入れ、弾正左衛門は隠居、小次郎は松平弾正左衛門を名乗ったという。平和のうちに岡崎城をも実質的に泰親が入手したことになる。この泰親岡崎城入手は諸書にみられるが、これには問題点がある。一般にいわれるように、西郷氏の岡崎城築城が享徳元年(1452)、泰親の没年が永享8年(1436)(これには諸説がある)とすると、泰親時代には岡崎城は存在しないことになる。松平氏の岡崎城入手は三代信光時代となろうか。
 泰親の活動にはこのほか大平(岡崎市)の柴田左京退治がある。岩津・岡崎の兵を以て夜中に五位原の砦に不意に攻めかかり、本城に逃げた柴田は城に火をかけ、山中に逃げたというものである。『旧岡崎市史』の第六巻大平の項には「柴田左京勝正城蹟」として東海道添いに土塁で囲まれた城址の絵を載せている。この柴田攻めには泰親による岡崎城入手が前提になるために、やはり柴田攻めについても史実としては疑問がある。


岩津城跡

岩津城から岡崎方面を望む

伊勢氏被官

 泰親の岩津への進出など額田郡での戦闘行為を容易にし、また正当化したものに松平氏の伊勢氏被官化がある。新行紀一氏により説かれているところであるが、三河国額田郡は基本的に足利将軍家直轄領である御料所であり、御料所を管轄したのが室町幕府政所執事伊勢氏で、松平氏はこの伊勢氏と主従関係を結ぶことにより勢力拡大を行ったとみられる。松平氏の伊勢氏被官の実相が顕在化するのは三代信光時代のことであるが、その発端はたぶん泰親時代の岩津城入手頃とみられよう。額田郡の要所である岩津の支配を正当化したのは松平氏が伊勢氏配下となることであり、幕府の末端に連なるという事実であろう。
 すこし時代が下がるが、松平一族の京都での活動も松平氏の伊勢氏被官により可能となったものである。泰親の子とされる益親は近江国の日野家領大浦荘と菅浦荘の代官として京都に屋敷をもち金融活動を行っていた。中世の惣村結合で知られた菅浦文書のなかには、菅浦荘と大浦荘の争いに三河からも松平氏の軍勢が菅浦にやってきたとある。また、三代信光の子親長も伊勢氏被官人として京都で活動、政所執事伊勢貞親の偏諱「親」を頂いている。  

死去

 泰親の死亡年については先述した永享8年(1436)のほか、永享2年など諸説があるが幕府の編纂物では永享8年、73歳で死去したとする。『三河物語』は泰親から信光への継承について、「岩津をば和泉守信光に御代渡させ給ふ」と岩津城ともに家督も譲ったとあるので、岩津が松平氏惣領の拠点となる。松平氏の居城であった松平は庶子信広が引き継ぎ、松平郷松平氏として惣領である岩津松平家の配下となってゆく。


岡崎市美術博物館 学芸担当課長

堀江 登志実