清康像の見直し

 清康は松平八代のなかでも、安城松平家の家督を譲られて以降、戦に東奔西走して三河一国をほぼ平定した英雄的存在とされている。こうした清康についての人物像はもっぱら「三河物語」に依拠したものである。ただ、清康は五代長忠や六代信忠、のちの八代広忠と比較しても同時代資料が極めて乏しく、発給文書について原文書とされるものは一点もないなど謎の人物ともされる。従来、こうした状況のなかでも清康については、新行紀一氏による研究が進められ、その成果は『新編岡崎市史』第二巻に収められている。さらに最近では中京大学教授の村岡幹生氏により清康像の見直しが行われている。村岡氏は「松平一門・家臣奉加帳」という資料により、信忠がまだ家督の地位にあったときは、清康は安城におらずに山中城を拠点としていたという新たな事実も明らかにされている(『新編安城市史』第一巻)。同氏は今まで清康文書として利用されてきたものにも批判を加え、清康の東三河進出についても疑問を呈するなど、あらたな清康像にむけて研究が現在進められている。

岡崎松平家攻撃

 「三河物語」により、安城松平家の清康は、まず岡崎松平信貞の持城である山中城を大久保忠茂の計略によって乗っ取り、信貞に岡崎城を明け渡させ、本拠を安城から岡崎へ移したとされている。山中城は岡崎市羽栗町字城山に位置する山城で、中世東海道を扼する場所にある。岡崎松平家が山中城の陥落を契機として清康に屈服したことは、山中城が岡崎松平家にとって重要な拠点であったことを示す。清康が岡崎松平を攻撃した年月については諸説あるが、ここでは大永四年(1524)五月としておこう。
村岡氏は清康の山中城拠点について、安城松平家のなかで頭角をあらわした松平信定と、信定に好意的な長忠(五代道閲)ならびに信定を抑えられない信忠と、清康との間に疎隔ができて清康は山中城に転出したという。このことは「三河物語」が語らないことで、山中城に居城したとなると、清康による山中城奪取以後、岡崎城に入る前であろうか。「三河物語」には徳川家の譜代家臣の分類に安城譜代・岡崎譜代とともに山中譜代が記されるのも清康の山中居城の事実を伝えるものであろう。

岡崎移城

 清康が松平信貞に岡崎城を明け渡させ、同城に入ったことについて新行紀一氏は、当時清康が入った岡崎城というのは、明大寺にあった西郷氏が拠点とした明大寺の城のことであり、清康はその地から竜頭山の近世岡崎城の地に享禄三年(1530)頃に移城したという。享禄4年8月付で大林寺に出される清康の禁制はこの近世岡崎城の城地への移城にともなうものとされる。村岡氏も清康の明大寺の地から今の岡崎城の地に居城を移したのは、明大寺の岡崎城は岡崎松平家から譲られた城であったから、この城を拠点としているかぎり岡崎家の後継者の印象を拭いえないので新しい城を築いたとしている。
明大寺の城地は狭隘な地であり、松平氏宗家の城にふさわしいものに拡張・整備する必要があったとみられる。居城の移転とともに明大寺の旧城からは岡崎松平家の大林寺が新城の北に移され、さらに安城からは八幡宮・甲山寺が岡崎に移された。六供の甲山寺由緒書は享禄三年、清康が安城の鎮守であった八幡宮を岡崎城本丸に勧請し、さらに安城の薬師堂と六つの坊を城の鬼門である甲山に移したと伝える。
清康は、岡崎への移城に前後して、尾張、東三河への出兵を行ったとされる。「三河物語」では尾張では岩崎・品野の攻略、三河では八名郡宇利城の熊谷氏、東三河の牧野伝蔵、田原の戸田氏などの攻略が語れているが、不明の点が多く検証は今後の課題である。

龍海院創建

 松平氏が帰依したのは浄土宗であったが、清康は一時的に曹洞宗に帰依したことがあったようである。そのことを伝えるのが岡崎市内の曹洞宗寺院龍海院の創建である。享禄三年(1530)の元旦、清康は是の字を握る夢をみた。これを龍渓院住僧摸外惟俊に判断させたところ、是は日の下の人であり、日下人は天下人であり、天下を掌握する夢であるとした。歓んだ清康が摸外のために一寺を建立した。これが是の字寺龍海院である。のちに清康は摸外に帰依して曹洞宗に改宗した。すると、大樹寺の八世宝誉がこれを恨み、大樹寺を退いて大浜の清浄院に入った。清康は宝誉を慰留して再度大樹寺の檀家となり、自身の代わりとしいて酒井正親を龍海院の檀越とした。そのことを証するように龍海院に酒井正親の墓所がある。

守山崩れ

 天文四年(1535)12月5日、清康は尾張守山の陣中で家臣の阿部弥七郎に殺される。阿部弥七郎は阿部大蔵定吉の子で、当日の朝、放れ馬による騒ぎに父が成敗されたものと思い込み清康を殺したという。「三河物語」は「日本一の阿呆弥七郎メとは此事なり」、と記す。清康の死によって松平氏の三河支配は一挙に崩れたので、世に「守山崩れ」という。清康の尾張進出は「三河物語」が記すように美濃三人衆と連携して織田信秀を攻めるものであるが、清康殺害の事件の背後に松平信定による策謀があったとする説がある。流言飛語を流して阿部弥四郎をそそのかして清康を殺害させたというのである。清康は享禄二年に尾張に進出、品野の地が桜井の松平信定に与えられており、また、守山には信定の館があり連歌会が催されていることからすると信定は尾張に拠点をもち織田氏とも関係を持ったようである。また、六代信忠の退隠と清康の家督相続にあたっては一族のなかに松平信定擁立をはかる一派が形成されており、当時松平信定は清康と敵対関係にあった。これらのことから松平信定の策謀説には妥当性があるといえよう。
清康の遺骸は家臣によって岡崎に運ばれ、菅生の丸山で荼毘に付される。その地にはのちに随念寺が建てられ、墓所が設けられる。


岡崎市美術博物館 副館長

堀江 登志実