「一の乙名にて有ケレバ」(いちのおとなにてありければ)

 永禄六年(1563)秋、酒井将監忠尚は上野城(豊田市上郷町)に拠って岡崎城の松平(徳川)家康と戦いました。しかし、翌年九月利あらずついに敗北して駿河に落ち行方知れずとなったといわれます。この戦いは忠尚が、家康に対して諸勢力が蜂起した三河一向一揆方の一翼を担って挑んだものでした。忠尚にとっては、家康の父広忠の時から松平宗家に対抗した一生の最後の戦いでした。
 『三河物語』は、この時の様子を伝える中で次のように言っています。
 「酒井将監(忠尚)殿は一の乙名に有ケレバ、上様か将監殿かト云程の威勢ナレ共」
―酒井忠尚殿は、(松平家の)筆頭家老を務める資格のある人でもあり、家康様か将監様かと言われる程に威勢がありましたものを……―と。

松平家譜代酒井氏

 よく知られていますように、酒井氏は松平家初代松平親氏の子酒井広親を祖とすると伝える松平家の譜代家臣です。親氏は松平郷に落ち着く以前に、幡豆郡酒井村で酒井与衛門の娘と一子をもうけました。その子が広親と言われます。
 岡崎市岩津町には、酒井広親の石宝塔があります。また、岩津信光明寺の観音堂は松平信光が文明十年(1478)に建立したものですが、酒井氏は松平氏に並ぶ助成をしたことがその棟札から知られます。酒井氏は松平氏と早い時期から深い関わりを持った有力な一族であったことは確かです。
 さて、酒井氏は「左衛門尉家」と「雅楽頭家」という二つの系統があります。左衛門尉家からは徳川四天王の一人で吉田城主となった酒井忠次が、雅楽頭家からは西尾城主となった酒井正親(政家)が出て、ともに家康の重臣として華々しい活躍をしました。

酒井忠尚の反骨

 一方、忠尚は左衛門尉家に生まれたようですが、生年・没年とも分かりません。父を酒井忠善と伝える『寛政重修諸家譜』の酒井左衛門尉家譜には、わずか六行の記述しかありません。失脚以前は忠次・正親とともに松平氏家中で「老三酒」(宿老である三人の酒井家の者)と呼ばれたようで、『三河物語』などの編纂物から松平家興亡の節目での忠尚の言動が伝わっています。
 天文九年(1540)、広忠が安城城を織田氏に奪われた時忠尚は織田氏に心を寄せ、広忠に「難渋ヲ申懸」て重臣の石川清兼と酒井正親の切腹を迫りました。「折も能ハ城ヲモ心掛給ふカ」とあり、あわよくば岡崎城を奪うつもりであったようですが失敗し、広忠の許を去りその後織田氏の後援で上野城主となりました。(『三河物語』)
 天文十五年(1546)年、広忠は上野城の忠尚を攻めました。忠尚は降伏しましたが、許されたようです。酒井氏一族としての立場が考慮されたのでしょう。弘治三年(1557)、上和田天白の地を浄妙寺に与える安堵状を、六人の岡崎奉行人の一人として酒井家の二人と共に与えています(浄妙寺文書)。家康方への完全復帰です。この時は今川氏領有時代ですから、忠尚は織田氏から今川氏に鞍替えした格好です。
 永禄三年(1560)桶狭間合戦の後、家康が今川氏と断交して織田氏と結ぼうとして酒井氏の三人に相談した時、二人は賛成したのに忠尚だけ「色を変じて席を立ける」し今川氏との断交に反対しました。これ以後、家康に出仕しなくなりました(『参州一向宗乱記』)。やがて、一向一揆が起り、忠尚はこれに与しました。冒頭で述べた所です。


上野城主郭跡の現状
上郷護国神社境内の一角で、土塁(櫓)跡がわずかに残存し、城山稲荷の祠がある。絵図があり、城跡は周辺へ広がることが想定される。


井田城跡の城山稲荷社
城山公園が井田城の遺跡である。台地縁辺に位置するが、遺構はほとんどない。絵図があり、館城(やかたじろ)と分かる。


酒井忠尚の立場

 幾度となく松平宗家に反抗した忠尚でしたが、結局成功しませんでした。時流は、家康の領国形成に尽くす生き方に脚光が浴びる時代になりました。
 忠尚は何を求めて、反抗を繰り返したのでしょうか。ある歴史家は忠尚を「叛骨を有する人物」としながら「動機は権力欲望の発動」とし織田信長に背いた明智光秀と同じとしています。本能寺の乱の動機に様々な議論があるように、忠尚の行動にもなにかの方針があったかも知れません。名族酒井氏の自己主張であったかもしれませんが、酒井氏の光とともに影も知ることで、歴史の深みが感じられます。


井田城と上野城

 酒井氏の本城井田城は方形単郭の館城です。城近くには酒井氏一族が集まっていました。これに対し上野城は複郭の城郭です。忠尚に従う一族以外の家臣も居て「上野人数」という軍勢を持っていました。上野城を本拠とした忠尚は、自力での発展を期していたのでしょう。

 『三河物語』の筆者大久保彦左衛門忠教は多くを語りませんが、忠尚に多少なりとも同情を寄せている書きぶりが伝わってきます。


信光明寺観音堂(重要文化財)
松平信光が文明10年(1478)に建立した禅宗様の仏殿である。棟札より、酒井氏が助成したことが知られる。


酒井広親石宝塔
信光明寺近くの山上にある。長禄三年(1459)の銘があり、岩津の酒井氏を知る資料の一つである。


愛知中世城郭研究会

奥田 敏春