松井城(波城)跡 西尾市吉良町小山田


 NHK大河「おんな城主 直虎」の主人公井伊直虎の後継は、のちに徳川四天王とよばれ彦根藩三〇万石の礎を築いた井伊直政である。直政の正室は西尾市にゆかりの深い唐梅院※1という女性であった。彼女の経歴を辿ってみたい。

唐梅院の出自

 唐梅院の父は三河国幡豆郡饗庭郷小山田(西尾市吉良町小山田)を発祥とする譜代大名松井松平氏の祖松井左近忠次※2である。地元には松井氏が築いた松井城(波城)跡や菩提寺正龍寺などがある。元来松井氏は室町幕府奉公衆饗庭氏の被官で、饗庭氏没落後足利一門の名族東条吉良氏の被官になったと思われるが、永禄四年(1561)の吉良氏の討伐にあたり松平宗家家臣団に編入されたようである。その後の忠次は、東条城最後の城主で甥である松平甚太郎家忠(東条松平家)の後見として家康の信任が厚く、武田氏との争いの最前線で活躍し数々の武功をあげ、最後は天正十一年(1583)、後北条氏と対峙した三枚橋城(沼津市)にて六三歳で死去した。墓は乗運寺(沼津市)にあり、かつては旧法応寺(西尾市吉良町駮馬)にもあった。忠次の後継には嫡子康重が就いている。松井松平家は代々周防守を称したことから、松平周防守家とよばれ、老中を輩出するなど譜代大名として幕府において重要な役割を果たし、また石見国浜田(島根県浜田市)など全国に転封され、最後は武蔵国川越(埼玉県川越市)八万石で幕末を迎えた。なお、忠次が後見した松平甚太郎家忠は、忠次に先立ち天正九年に亡くなり、東条松平家の名跡は家康の四男松平忠吉が継いでいる。


江原丹波守一族の墓 西尾市江原町 妙喜寺

 唐梅院の母は父忠次の正室で、三河国吉良荘江原郷(西尾市江原町)の領主で小笠原氏一族の江原丹波守政秀女である。彼女は忠次死後、嫡子康重に従い武蔵国騎西(埼玉県加須市)に同行して、慶長四年(1599)に騎西城で死去し、大英寺(埼玉県加須市)に葬られた。丹波守政秀は奇しくも井伊直虎の父直盛と同じく永禄三年の桶狭間の戦いで討ち死にし、墓は妙喜寺(西尾市江原町)にある。なお、江原氏の子孫は尾張藩士として存続した。また、唐梅院の母の姉妹は本多正信に嫁している。
 唐梅院の出生地は定かでないが、父忠次の本拠地三河国吉良荘東条(西尾市吉良町)ではなかろうか。

井伊氏と井伊直政

 井伊氏は、元は遠江国の在庁官人で遠江介ゆえに井伊介と称した遠江国井伊谷(浜松市北区)を本貫とする武家である。南北朝時代は南朝方として守護今川氏と争ったが、のちに今川氏に従属した。しかし、天文・永禄年間(1532~1570)井伊家では当主が相次いで討死や誅殺され、やむなく井伊家を守るべく当主となったのが今回のNHK大河の主人公直虎(次郎法師)である。直虎の後継がかつての許婚直親の子直政であった。
 直政は、永禄四年生まれで母は井伊家の分家奥山氏女である。今川氏滅亡後、徳川氏に仕官し、数々の武功をあげて、やがて譜代大名としての地位を確立していった。その間、天正十年頃、唐梅院を許婚とする。なお、唐梅院は輿入れの際、家康の養女となっている。三河譜代でない直政が無類の出世を遂げたのは、本人の器量もさることながら歴戦の勇として家康が頼りにした松井松平家を外戚としたことが大きかったであろう。


その後の唐梅院と井伊家

 井伊直政は関ケ原の戦い後、勲功により近江佐和山(のち彦根藩・彦根市)十八万石を拝領したが、合戦で受けた鉄砲傷がもとで慶長7年に亡くなり、家督は唐梅院所生の長男直継が継いだ。しかし、大坂冬の陣の後家康は、井伊隊を率いた側室印具氏の産んだ直政次男直孝を彦根藩主、直継を三万石の安中藩(群馬県安中市)主とする裁定を下した。
 井伊家を支え続けた唐梅院であったが、寛永十六年(1639)病没し、安中城下の大泉寺に葬られた。現在、唐梅院の墓碑は直継の側室隆崇院の墓碑とともに安中市指定文化財となっている。なお、唐梅院には二人の娘がいたが、長女清泉院は東条松平家の松平忠吉(家康四男・二代将軍秀忠同腹弟)に、次女徳興院は仙台藩主伊達政宗の長男秀宗に嫁している。
 その後の彦根藩は掃部頭家とよばれ、三〇万石に加増され大大名となり幕末までに大老を五名出すなど幕府を支え続けた。著名な後裔には安政七年(1860)の桜田門外の変で暗殺された大老井伊直弼がいる。一方安中藩井伊家は直継(直勝)の後継直之(直好)のとき、一時西尾藩主となりその後掛川藩(掛川市)主を経て越後与板藩(新潟県長岡市)主として維新を迎えている。なお、直継の系統は代々当主が直政の官途兵部少輔を継承したことから兵部少輔家と呼称されるが、本来はこちらが井伊氏の嫡流である。
 井伊家を守った唐梅院の想いは現代にも引き継がれている。唐梅院の大河登場を祈念して擱筆する。

※1 「東梅院」とする史料もある。唐梅院の墓所がある安中市の文化財の説明では初め「東梅院」と称し、のちに「唐梅院」に改称したとする。一説では徳川家康の神号・東照大権現を憚り、「東」の字を「唐」の字に改めたという。俗名は「花」と伝わる。

※2 松井忠次は武功により天正3年(1575)頃、家康より「松平」の姓を賜っている。なお、『寛政譜』によれば同じ頃、家康から「康」の字を下賜され「康親」と称したとされるが、柴裕之氏の研究により天正10年(死の前年)まで名のりは「忠次」のままであったことが明らかにされており、実際に「康親」と改称したかどうかは不明である。


西尾市史調査員

齋藤 俊幸