信光は親氏の子で、和泉守を称し、応永11年(1404)生まれである。泰親の跡を継いで松平家の三代目当主となった。「三河物語」はこの信光の時に西三河のうち三分一を支配下においたといい、三河での勢力拡大を伝える。
大給・保久攻め
信光の事蹟として「三河物語」、「三州八代記古伝集」は大給(豊田市)・保久(岡崎)攻めを伝える。大給の長坂新左衛門、保久の山下庄左衛門が一緒になって信光に敵対したようである。保久の山下氏は幕府奉公衆で、大給の長坂氏は山下氏の姻戚という。大給を配下においた信光は次男源次郎(乗元)に大給の城を与えたという。大給は松平から岩津へ出るルート上にあり、岩津に進出した松平氏からすると、攻略時期が後になるのは不自然である。幕府編纂物の『朝野旧聞褒藁』はこの大給・保久攻めについては記述していない。
額田郡一揆
寛正6年(1465)、額田郡で反幕府・反守護の一揆が起きた。幕府政所執事伊勢貞親の執事で政所代であった蜷川親元の『親元日記』によると、この蜂起事件に対し、松平信光と戸田氏に鎮圧命令が幕府から下った。一揆の全容は「今川記」(富麓記)で知ることができる。
同書によると、丸山中務入道父子、大場二郎左衛門、簗田左京亮らは額田郡井口砦(岡崎市)で牢人を集め、年貢を略奪した。幕府は牧野出羽守、西郷六郎兵衛に討伐を命じ、数百の兵が三日三晩攻撃を加えて攻め落とした。しかし、大部分は逃走して狼藉を続けたので幕府は松平和泉守入道、戸田弾正父子に討伐を命じ、丸山は大平郷にて戸田に、大場次郎左衛門は深溝にて松平和泉守か子息大炊助にうたれたという。また、芦谷助三郎・大場長満寺は駿河国に逃れたのを今川義忠に討ちとられた。一揆を起こした連中は「今川記」では三河吉良氏の被官衆のように記しているが、新行紀一氏は幕府奉公衆、あるいは下級の将軍直臣であろうと想定している。この事件により、松平氏の伊勢氏被官としての立場が明確になった。一揆加担者の所領は幕府に没収され、それが松平・戸田の討伐参加者に与えられる。信光は与えられた所領を子供たちに分与し、深溝・形原・竹谷・五井といった額田郡南部から宝飯郡西部へと飛躍的に勢力を伸ばしてゆく。
安城城奪取
額田郡一揆討伐のあと、信光の動きとして安城城の奪取が伝えられている。「三州八代記古伝集」では踊りで笠鉾を華やかに拵え、奴踊りと称して若き侍数百人を羽織の下に刀大小を忍ばせ、槍の柄を切り縮めて棒のごとく見せて矢作宿にて踊り、その後安城の西野で踊りを催し、安城の城兵が見物に出て帰るのに紛れて城に付け入って乗っ取ったという。「三河物語」も同様の話を載せ、乗っ取った城は三男の親忠に譲ったという。この安城攻めの年代については不明であるが文明年間の頃とされる。信光の安城城奪取は全国的に展開する応仁・文明の乱の三河版で、三河での守護細川氏(東軍)と前守護である一色氏(西軍)との戦いの構図のなかで説明される。新行紀一氏は、信光は細川氏方の東軍であるので、攻略した安城城の城主について一色氏方の西軍を想定している。文明年(1475)、戸田宗光(東軍)が一色七郎を討って渥美郡の田原城に入るのも同様の構図である。新興勢力(松平・戸田)と旧勢力との対立構図とも言ってよかろう。
信光は文明18年7月、岩津の信光明寺の弥陀三尊に願文を奉納している。それには安城・岡崎の二城は戦わずして入手したとある。応仁・文明の乱中の総仕上げが松平氏による安城・岡崎の支配であった。なお、岡崎城入手については、先代泰親の事蹟であると諸書が記すが、先号で紹介したように問題点があり、三代信光の事蹟とみる方がよいであろう。
寺院の建立
信光は生涯に三つの寺院を建立している。最初が岡崎市滝町にある曹洞宗万松寺である。永享12年(1440)、龍澤永源に信光が帰依して建立したという。龍澤の師は華蔵義曇といって、肥後国を中心とする曹洞宗寒巌派を東海地方に伝播させたことで知られ、浜松の普済寺を中心に三河にも教線を拡大、東三河では妙厳寺がその拠点となった。万松寺には龍澤が文明十年八月に賛をした信光画像が伝わっている。宝徳3年(1451)、釈誉存冏に帰依して岩津城下、弥勒谷に親氏・泰親菩提のために建立したのが浄土宗信光明寺である。開山釈誉存冏は下総国飯沼弘経寺二世了暁の弟子で三河へ布教で来住、松平氏が浄土宗信者となる端緒となった人である。同寺観音堂は文明10年4月、信光が釈迦堂として建立したもので棟札が残されている。最後が寛正2年(1461)、死去した子供の親則のために教然良頓を開山として岩津に建立した浄土宗西山深草派妙心寺である。開山教然は二代目泰親の子である。信光明寺は文明11年、妙心寺は同13年にそれぞれ後土御門天皇の勅願所の綸旨を賜り、松平氏の勢力拡大とともに寺院の格式が高まってゆく。
死去
信光の死去は長享2年(1488)7月22日とされる。応永11年(1404)生まれなので享年85歳ということになる。崇岳院殿月堂と号し妙心寺に葬られた。
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