本多忠勝像(岡崎市美術博物館蔵)

本多忠勝像(岡崎市美術博物館蔵)


はじめに

本多忠勝といえば、戦国最強武将と称されることもある、勇猛果敢なイメージが強いであろう。しかし彼ひとりで数多の武勲を成しえた訳ではない。江戸時代の本多忠勝の記録にも、彼の家臣の活躍が複数記される。
忠勝が武将としての第一歩を踏み出したとき、決して恵まれた環境ではなかった。祖父忠豊・父忠高を戦で亡くし、叔父忠真の後見を受けていた。松平氏譜代の家とされるが、父たちとともに戦死したのか、家臣は多くなかったようである。近世後期時点での本多家家臣団のうち、父の代以前からの家臣は、約四百家のうちわずか四家であった。なお四家のうちのひとつが小柳津家、丸善社長となり「洋書の丸善」の基礎を築いた小柳津要人の家である。

「御附人」の附属

忠勝の「家臣団」が拡充されるのが、永禄9年(1566)とされる。家康が三河を統一し、三備の制という家臣団編成を整備したときのことである。ここで忠勝は旗本一手役の武将のひとりとして、家康から五〇余騎の与力が附けられたとされる。ただし複数の史料を比較検討すると、実際にはもっと少なかったと考えられる。また彼らの多くは、忠勝に従軍してはいるが、知行は引き続き家康から与えられる、家康の直臣であった。その意味では忠勝と同じ立場であり、正確には忠勝家臣ではない。彼らの事を、江戸時代には「御附人」と呼んでいる。


徳川家康判物 都筑秀綱宛(岡崎市美術博物館)

徳川家康判物 都筑秀綱宛(岡崎市美術博物館)


もっとも、御附人とひと括りにされるが、その構成員の顔ぶれはさまざまであった。江戸時代には家臣が筆頭家老となる都筑惣左衛門秀綱は遠州の国衆で、飯尾豊前守連龍が今川氏真に反旗を翻した際に活躍し、氏真から五百貫文の知行が宛行われた実力者であった。永禄12年に家康からも五百貫文の知行安堵がなされており、これ以後忠勝に附属されたものと思われる。年齢も忠勝より15歳上で、単なる兵力としてではなく、忠勝を補佐・監督する立場を期待されての附属であったのだろう。


一〇万石拝領

天正18年(1590)、家康が江戸に移封された際、忠勝は上総大多喜一〇万石を拝領した。この時家臣団も増強されたと考えられるが、本多家の家臣団を記した「本多家岡崎藩分限帳」を見る限りでは、上総周辺を本国とする家臣は多くない。関東移封に伴って家康から忠勝へ附属された人物に、中根平右衛門忠実がいる。この中根忠実は、知行三千石のうち千石を家康から、二千石を忠勝から与えられる特殊な形態をしている。これは忠勝からの二千石は中根忠実自身に、家康からの知行千石は中根忠実に附属された者に対する「与力給」と考えられる。忠勝から知行が与えられていることから、中根忠実は都筑秀綱らと異なり、この時点で忠勝の家臣とされたといえる。一方で中根忠実には忠勝の妹が嫁いでおり、義兄弟の関係でもあった。中根忠実には本多家の「家政等世話」と忠勝の子忠政の後見が任されているのは、縁戚であることも要因の一つであろう。なお、松下河内守元綱も中根と同様の知行形態をとっている。


都筑秀綱菩提寺の成金寺(浜松市)

都筑秀綱菩提寺の成金寺(浜松市)


家臣団の形成

永禄年間に忠勝に附属された御附人は、天正18年の大多喜襲封、慶長6年(1601)の桑名移封を画期として、段階的に忠勝家臣に編入されたと考えられる。ただし、都筑氏などのような大身の御附人は、幕府成立後も家康(徳川氏・幕府)から知行を与えられていた。御附人の中には忠勝家臣になることを拒み、本多家を離れたり、旗本となることを願い出た者も多数いる。御三家の付家老となることを拒否する者がいたことはよく知られているが、御附人も同様だったようである。家康直臣ということへの矜持がうかがえる。

全ての御附人の知行が本多家から与えられる=本多家家臣となるのは、元和3年(1617)の姫路移封を契機としている。しかし徳川氏から本多家へ知行を付替えると、単純に本多家の負担が増すことになる。都筑氏の知行は五千石、次点の梶淡路守勝成は四千石、ほかに中根・松下らの寄子給など合算すると、一万石単位で本多家家臣への知行が増加した計算となる。さすれば本多家の桑名から姫路への加増転封は、要衝の警衛とともに、本多家の負担増加への対応という側面もあったことが想定される。同時期に酒井家の加増転封、井伊家の加増などがなされており、同様の対策が御附人を抱えていた譜代各藩に対して講じられた可能性もある。


宝船図 伝徳川家康筆(個人蔵、梶家伝来)

宝船図 伝徳川家康筆(個人蔵、梶家伝来)


梶勝忠像(個人蔵)

梶勝忠像(個人蔵)


おわりに


忠勝への御附人の付属から、本多家の家臣団が形成されるまでを見てきた。大部分を近世の記録史料に依拠しており、不明な点が多いのが実情である。しかし、そもそも忠勝は家康家臣団のひとりであり、御附人の附属をはじめ、忠勝の「家臣」団編成には、家康の意向や家康家臣団編成の論理に規定されていることは間違いない。つまり(個別の事情の考慮は必要だが)酒井・榊原・井伊など、他家の展開を比較・補完して論証を進めることも可能である。

この30年あまりで、家康研究は劇的に転換深化した。一方で家臣については、一部を除きまだ「徳川中心史観」に囚われていると言わざるを得ない状況である。家康研究の進展・視点を踏まえて家臣を見直した時、どのような三河武士像が描けるか。非常に難しく、面白い命題である。


岡崎市美術博物館 学芸員

湯谷 翔悟