岡谷市長地東堀の尼堂浄苑にある徳本翁の墓(中央、江戸時代初期)。
沢山の石が詰まっており、その石でイボをこすると治るというしきたりが残っている。


武田信玄親子の侍医に

 徳本翁は、永正10年(1513)三河大浜に生まれた。少年の頃、陸奥国で仏門に入り、鹿島(茨城県)に行き、最初は僧残夢を師と仰ぎ修験道における神仙吐納(呼吸法)を学んだ。
 後に月湖道人(中国からの帰化人)や田代三喜、玉鼎らより李朱医学(当時の明からもたらされた漢方医学)を修め、甲斐(山梨県)に移り住んだ。
 当時、甲斐の国主であった戦国大名武田信虎、その子武田信玄の侍医となった。諸国巡遊の中、甲斐国に最も長く滞留したことから「甲斐徳本」とも呼ばれた。
 武田家において、息子の信玄と父信虎が不仲になったため、徳本翁は甲斐にいることが嫌になり、天文10年(1541)に信州諏訪の東堀村に移り住んだ。そして御子柴家に寄寓し、その娘と結婚した。
 今でも御子柴家には徳本釜や翁が牛に跨って薬草を採集に行く小像が残っている。

薬袋を首にかけ、 諸国を

 当時盛んな後世家医方を学んだが、これに飽きたらず独自の医説をたて、中国後漢の張仲景の医説によるべきことを主張した。疾病は鬱滞に起因し、多くは風寒によって発病すると説き、いわゆる汗・吐く・下・和の治療法を唱えた。作用の激しい薬を用いて病気を攻撃する療法を行ったのだ。張仲景の「傷寒論」の中の法則は、このとき初めて日本で行われたと言える。独自の処世訓をもち、医家の風俗矯正にも熱心であった。
 武田家滅亡後は、戦火を逃れて東海・関東諸国を巡り、貧しい人々に無料で薬を与えたり、安価で診療を行ったとされる。
 伝承によれば、徳本翁は首から「一服十八文」と書いた薬袋を提げ、青牛の背に横になって諸国を巡った。どんな治療を行ってもそれ以上は、取らなかった。また、貧者には無料で診療を行った。人々は、徳本翁のことを「十八文先生」と呼んでいた。
 当時、医者が権門勢家にへつらい、貧困者に見向きもしなかったのを改めさせようとしたのである。
 京都の名医曲直瀬道三らとも往来した。そして、天正10年1582)、70歳になろうとしたとき、甲斐に帰り、甲府の横近習町に住んだ。後に上一条町に移った。

甲州葡萄の基礎を

 徳本翁は山野を巡り、薬草を採取しながら研究したため、本草学にも精通していた。慶長20年1615)、百二歳頃に葡萄の接ぎ木、挿し木や葡萄の棚架け法などを発明して村人に教えた。そのことが、今日の甲州葡萄の隆盛につながったと言われている。


碧南市の宝珠寺裏にある徳本稲荷。
もともと寺の鎮守としてあったが、住職が徳本の傑物たるを聞き、大浜出身の偉人を偲んで「徳本稲荷」と命名した。


将軍秀忠の大病を治癒

 寛永2年(1625)、将軍職を退いていた二代将軍徳川秀忠は大病にかかった。多くの名医がいろいろな薬をすすめても効果がなかった。医聖徳本を推す人があり、秀忠の前に徳本が呼ばれた。そして徳本の処方した薬で、秀忠は見違えるように全快した。そのときも、薬代は「一服十八文」の計算で受け取り立ち去ったと言われている。そのことによって、ますますその名を挙げた。

118歳で死去、 イボ神様に


 晩年は現在の岡谷市に居住し、寛永7年(1630)、数え年で118歳の長寿の末死去したと言われている。その人生は謎と伝説に包まれている。
 著書に「梅花無尽蔵」「徳本翁十九方」「医之弁」「知足斎医鈔」などがある。
 徳本翁の墓は、今の岡谷市長地東堀尼堂浄苑(墓地)にある。その墓は、「徳本の籃塔」と呼ばれ、沢山の石が詰まっている。今でも、その石でイボを擦ると治るというしきたりが残っている。


出生とトクホン

 碧南市音羽町の宝珠寺裏に徳本稲荷があり、その横に、徳本翁の記念碑が建てられている。
 徳本翁は、大浜羽城の長田重元の弟で、永井直勝(七万二千石の古河城主)の叔父に当たるとも言われ、「長田徳本」と書かれてある書物が多い。ただ、その出生や系図については諸説があり、重元の甥、重元の孫、あるいは長田の分家の子であるなどとも言われる。また、歴史悲話により長田の長をナガと読むことから「永田徳本」とも言われるようになった。
 また、外用消炎鎮痛剤で知られる日本の製薬会社は、創業者が徳本翁を医聖と崇めていたため、平成元年に社名を㈱トクホンに変更した。


徳本翁の記念碑。


碧南市市史資料調査員

浅井 久夫