洋学を学ぶ
小柳津要人は弘化元(1844)年2月15日、岡崎藩士小柳津宗和の長男に生まれた。少年の頃、昌平黌に学んだ志賀重職(悾堂)の家塾に通い、17歳から藩に出仕する。先輩や同僚と将来における洋学と漢学の是非を論じ、洋学を修める決心をした。文久3(1863)年、二十歳の時、洋式大砲方の命を受けて江戸へ行く。大鳥圭介の縄武館に入り、中浜万次郎に師事し兵学や英語を学び、その後幕府の洋学機関開成所に転じ、英学得士となった。
幕末を生き抜く
慶応2(1866)年、岡崎藩は幕府の命で京都の警備に当り、翌年伏見の警備になる。小柳津は伏見警備を命ぜられた。慶応4年1月3日、鳥羽伏見の交戦となり、幕府軍は敗れ、新政府軍は討幕のため江戸に向かう。岡崎藩内は二分したが、藩主本多忠民の諭示により新政府の命に従うことに統一。新政府は駿府域の守衛を命じる。これを不満に、小柳津ら同志は脱藩し、政府軍に抗戦する遊撃隊に合流する。岡崎藩脱藩士28人は遊撃隊第三軍となり、小柳津は大砲長となって箱根関所で烈しく戦った。
戦いは不利となり熱海から千葉館山に退き、小柳津らは奥羽越列藩同盟軍に加わり、磐城平、仙台、榎本武揚の率いる函館五稜郭へと抗戦を続ける。小柳津は仙台から北海道に行く船中、箱根で受けた傷が痛み「両便ハモトヨリ寝返リモ出来ズ」と『遊撃隊戦記』に記している。明治2(1869)年5月18日ついに五稜郭は落城。1年5ヵ月に及んだ戊辰戦争は終る。
小柳津は岡崎に帰され謹慎を命ぜられていたが、明治3年3月許される。時に26歳。
丸善入社、書籍業界のリーダー
小柳津要人は東京へ行く決意をする。一時、沼津兵学校の英語教授の書生をして、大学南校(後の東京大学)、そして慶応義塾に学び、九州柳川、地元岡崎で英語を教えていたが、福沢諭吉の勧めで、明治6年1月、横浜の丸屋商社(丸善)に入社する。
丸善は、福沢諭吉の提案で門下の岐阜県出身早矢仕有的が明治2年1月、和洋書と西洋医薬品等の販売を目的に創業した。翌3年には東京に店を出す。
小柳津は書籍部門の担当となったが、英語を修めており、たちまち有要な社員となった。明治10年に大阪支店支配人、明治15年には本店支配人に昇進。書籍部の責任者となり、洋書の輸入、国内出版物の販売、自社出版事業を統べる。明治33年2月、専務取締役(社長)になり、大正5(1916)年1月、勇退するまで、15年間の長い間就任した。
出版書籍商は明治20年12月、東京書籍商組合を設立し、小柳津は、明治22年から副頭取、明治25年に頭取(組合長)に推され、明治42年までその地位にあった。
大正11(1922)年6月21日他界、78歳であった。
文明開化の推進
多くの業績の第一は、外国の仕入先への信用を高め保持したことであろう。「一電を飛ばせば如何なる量の商品でも直ちに送って来た」という。東京書籍商組合長として、わが国の出版、書籍普及に寄与し、文明開化に貢献した功績は大きい。
丸善の経営を安定発展させ、鉄骨煉瓦造りの新社屋建設、書籍の横組出版も小柳津要人の業績である。
郷土発展への支援
その事蹟を列記しておきたい。志賀重昂の『南洋時事』の出版、ベストセラーになる。岡崎電灯の計画書の保証、これによって、杉浦銀蔵ら三人は設立を決断した。岡崎町立図書館へ多くの図書寄贈。岡崎商業会議所特別議員に推薦され、岡崎地方経済界のために尽力した。岡崎市名誉市民でもある。
※この記事は2010年01月01日時点の情報を元にしています。現在とは内容が異なる場合がございます。