伊奈城跡(豊川市伊奈町)

[写真1]伊奈城跡(豊川市伊奈町)

はじめに

徳川家康の祖である松平氏に仕えた三河の武士の中で、親忠・長忠・信忠の三代の時期に従った家を、安城城を本拠としたことに因んで安城譜代という格式で表現しています。これより古い時期の岩津譜代という分類もありますが、安城譜代とは岩津譜代を含めた古くからの譜代の武士を指したものとしても考えられています。今回は安城譜代の中で、特に家康のもとで名を馳せた人物が多く存在した三河本多一族を取り上げます。

本多氏の出自

三河本多一族はその出自を藤原北家の摂関家とし、後に助秀の代に至って豊後国本多の地(大分県臼杵市と推定)に移ったとされています。江戸時代の諸伝ではここに本多屋敷があったとしています。助秀の子右馬允助定の時に鎌倉幕府が滅び、そして後醍醐天皇と足利尊氏が対立、尊氏は京都を追われ九州に落ち延びました。この前後に助定は尊氏に従ったと思われます。建武三年(1336)3月には助定は九州から遠い越前の後醍醐方勢力の鎮圧を尊氏から命じられ、翌4年(延元2年)、助定はその恩賞として尾張横根(大府市)・粟飯原(あいはら、名古屋市緑区か)に所領を与えられたとされます。その後どのようにして三河と関係を持ったかは不明ですが、文明末年頃(1487年頃)のものとされる「諸国御料所方御支証目録」に、三河国の「本田左近将監跡」、つまり本田左近将監の旧領が当時幕府直轄領となっていたことが記されています。しかし、本田が三河本多一族の祖先であったことを証明するものはありません。また、本田と本多は音が同じで違いはなかったと考えられています。

本多五家

三河本多一族の中で、徳川家康の代に頭角をあらわした家が五家あります。土井の豊後守家(岡崎市土井町)、洞あるいは蔵前(同市洞町・西蔵前町)の中務大輔家、大平(同市大平町)の作左衛門家、小川の正信・正重家(安城市小川町、ここでは小川本多家とします)、そして東三河宝飯郡伊奈(豊川市伊奈町)の伊奈本多家(縫殿家とも)です。このうち、伊奈本多家以外の四家は由緒や家系に共通点を持ち、額田・碧海・幡豆郡の西三河南部、特に矢作川沿いに派生した本多家と思われます。伊奈本多家は山城国愛おたぎ宕郡賀茂郷(京都市)から伊奈に来住したとされます[写真1:伊奈城跡]。家康のもとで活躍した人物には、武で活躍した忠勝(中務大輔家)、広孝・康重(豊後守家)、正重(小川本多家)、忠次・康俊(伊奈本多家)、家康領国の内政に寄与した重次(作左衛門家)、正信・正純(小川本多家)などが挙げられます。

三河一向一揆と本多氏

永禄3年(1560)五月の桶狭間の戦いで家康が岡崎に帰還したあと、早いうちから家康に従って活躍したのは、豊後守家の土井城主本多広孝です。駿河の今川氏真と決別した家康は翌四年から幡豆郡にある今川方の拠点西尾(西城)城や東条城を攻めます。幡豆郡の制圧は酒井政家や本多広孝、松井忠次らの働きが大きく、広孝は東条城攻めの戦功によって家康(当時は松平元康)から幡豆郡内に所領を与えられました。加えて家康は碧海・額田郡(安城市・豊田市南部・岡崎市・幸田町)など西三河南部の国衆を糾合し、東三河にも侵攻を進めますが、その途中で三河一向一揆が起きます。

伊奈本多家を除いた西三河に居た本多諸家の多くは真宗門徒(当時の浄土真宗本願寺派)でした。永禄六年末から翌七年にかけて起きた三河一向一揆は本多諸家のその後を大きく変えました。

小川本多家の正信・正重らは一揆方につき、正信は国衆で家康に反抗した酒井忠尚の上野城(豊田市)に籠っていて、一揆終結後に正信・正重は三河を去りました。他の本多家は諸伝によると宗旨を変えて家康方として戦いました。そのうち豊後守家の広孝は、家康に対して一揆方でないことを証するために息子の彦次郎(後の康重)を人質に入れ、一揆の激戦地で土井城を守ったと伝えられています。土井城は豊後守代々の居城でした[写真2:本多秀清墓]。


本多秀清墓(岡崎市土井町)

[写真2]本多秀清墓(岡崎市土井町)(本多広孝の曾祖父にあたる秀清の墓。この周辺に土井城があり、豊後守家がこの地を治めていた。)


しかし、一揆方についたのは小川本多家だけではなく、一揆関連の諸書には、一揆方の拠点であった野寺(安城市野寺町)の本證寺に籠った本多家、土呂本宗寺(岡崎市福岡町)には本田甚七・同三九郎、六ツ名(同六名町)には本田喜蔵など、また家康方には本多庄左衛門(百助)・同修理、本多忠俊(忠次の事か)、大平の本多党、本多左近右衛門・同五左衛門などの名前がみられます。三河に本多氏が来住し、西三河南部に一族を分出していたことが窺うかがわれ、またこの三河一向一揆で没落した家も多かったことが推測されます。

三河統一戦と本多一族

一時中断していた東三河侵攻が永禄7年4月に再開されました。伊奈本多家は今川方から家康につき、吉田攻めで活躍しました。また、豊後守家の広孝は砦を築いて、田原城(田原市)を攻め、その恩賞として田原城とその周辺に所領を与えられました。広孝やその子康重は田原衆を率いて家康の軍役に奉仕しました[写真3:三河田原城]。


[写真3]三河田原城(安城市歴史博物館蔵「主図合結記」)(家康が今川氏と断交した後落とした城。関ヶ原の戦い後に伊奈本多家が城主となった。)


これら合戦で華やかな戦歴を残すのが、中務大輔家の忠勝です。忠勝は生涯の戦闘で一度も疵きずを負うことがなかったという由緒を持ち、家康の合戦では常に家康に従って戦ったとされます。例えば、天正12年(1584)以降、家康と豊臣秀吉とが対立するなか、秀吉の知らない家康家臣を使者にしたところ、秀吉はその無礼に怒ったため、家康は忠勝を使者としたとされ、すでに忠勝の高名は周知の事であったことを表しており、その戦功は群を抜いていたと考えられます。

しかし、忠勝の父忠高、祖父忠豊は家康の父松平広忠に仕え、尾張の織田信秀に奪われた安城城の奪還を図る中で討死しました[写真4:本多忠豊墓碑]。叔父忠真も元亀3年(1572)三方ヶ原の戦いで討死しました。忠勝の多くの親族は合戦の犠牲者となっています。三河本多一族は合戦において先陣を務めることも多く、激戦によって家臣の討死や、本多の当主自身が疵を負ったなどと本多諸家の系譜・由緒書に記されています。


本多忠豊墓碑(安城市安城町赤塚)

[写真4]本多忠豊墓碑(安城市安城町赤塚)


忠勝と同じく秀吉と関係するのが作左衛門家の重次です。重次は合戦で片目、片足を失った人物とされますが、後年は有能な吏僚として家康領国の内政に携わっています。また、小川本多家の正信は帰参後に家康の右腕として政治、外交、内政に手腕を発揮しました。このように、三河本多一族は多彩、多様な人物を輩出し家康を支えた一族といえます。


安城市歴史博物館 学芸員

三島一信