家康の先祖
家康の天下統一には、家康が生まれるまでの先祖松平氏八代にわたる前史があります。初代とされる親氏から始まり、泰親、信光、親忠、長親、信忠、清康、広忠まで約150年間にわたり展開した松平氏の領主権力の歴史です。秀吉が羨ましがった家康家臣団というのもこの先祖からの長い歴史のなかで形成されたものです。家康の三河統一さらには天下制覇には松平八代にわたる蓄積の歴史的前提があるわけです。本稿ではこうした視点から家康が登場するまでの松平八代の歴史を紹介してみたいと思います。
初代親氏―徳阿弥
松平氏初代の親氏は新田源氏世良田氏の末裔とされ、新田庄徳河(群馬県太田市)の地を出て、徳阿弥と称する時宗の僧侶として諸国を流浪、三河国加茂郡松平郷(豊田市)の松平太郎左衛門家の婿養子に入ったとされます。『三河物語』は次のように記します。
親氏の先祖は八幡太郎義家の流れで、上野国新田郡徳河の郷にうちに代々いたので徳河殿と申す。足利高氏に打ち負けたとき、徳河郷を出て流浪した。親氏は時宗の僧侶となり、徳阿弥と称した。西三河坂井郷へ立ちよったときに若君を儲けた。しかるところ、松平郷に太郎左衛門尉といい、国中一の有徳人がおり、一人娘の婿に徳阿弥をとり家督を継がせた。坂井郷で儲けた子は惣領とは言い難いので家の家老にした。
ここで語られるのが『三河物語』をはじめとする幕府編纂物にみられる親氏像です。これに対して松平郷に伝来したとされる「松平氏由諸書」(『松平村誌』)での親氏像は少し違います。そこでは親氏は廻国する時宗の僧侶ではなく一人の旅人として描かれます。
松平郷の信重らが連歌興行している場に一人の流れ者があらわれ、筆役をうまくつとめたという。これが徳翁斎信武で、信重がしばらく屋敷にとどめた。信重は旅に出ようとする徳翁斎に、自分には子供が二人あり、姉の海女は当国酒井というところに縁付き、妹水女がまだ独身でいるので婿になってほしいと申し入れた。すると、徳翁斎は八橋にいる弟祐金斎の面倒をみてもらいたいとの条件を出した。信重は承諾し、水女と徳翁斎の縁談が決まった。
どちらの親氏像が真実に近いのでしょうか。『新編岡崎市史』で「松平氏由緒書」を紹介した新行紀一氏は地元に伝わる伝承こそ真実に近いとしています。新行氏は幕府編纂物などと矛盾がありますが、地元成立の諸書を見直すことこそ「松平中心史観」を克服する手立てになるとしています。
松平太郎左衛門尉信重家
親氏が婿となった松平太郎左衛門尉家の信重は、『三河物語』によると「国中一の有徳なる人」といいます。有徳人とは流通・交通に関与し、多大な収益をあげる富裕な人です。「松平氏由緒書」にも、信重は裕福で金銀・米銭に不足がなかったと記されています。信重は12人の下人に「十二具足」と称する道橋を拵える道具をもたせ人馬の道を造らせ、通行を容易にしたと「松平氏由緒書」にあります。似た話は『三河物語』にも記されます。これは松平太郎左衛門尉家が有徳人として村の開墾、流通・交通に関与していたことを示すものです。武士的な匂いがありません。
親氏については二代目となる泰親とともに中山17名の征服について語られます。「三州八代記古伝集」によると加茂郡林添の薮田源吾忠元、二重栗に二重栗内記、額田郡麻生内蔵助などを討ったので、田口の中根、秦梨の粟生、奥岩戸の岩戸大膳、柳田の山内など各氏すべてが降伏したといいます。
ただ、これを武力で周辺を従えたとするものでなく、買得で支配地域を拡大したとし、武力によるものでないとする見解があります(平野明夫『三河松平一族』)。前述の松平太郎左衛門尉信重の有徳人像からすると首肯できる興味ある見解です。
松平郷に築城
親氏は中山17名を攻め取った後、松平郷内に城を築いたといいます。その城跡は、現在、松平城は郷敷城とも呼ばれ、松平郷の南端「城山」と称される標高298mの丘にあります。現在、曲輪・堀・土塁などの遺構が残っています。ここは詰めの城で松平氏の居館は、少し離れた現在の松平東照宮の地であるとされます。ただ、両者の間が離れているので、城の北西麓の「竹の入」と通称される地に居館があった可能性も指摘されています(『愛知県中世城館跡調査報告Ⅱ』(西三河地区)。松平東照宮の場所は慶長18年(1613)、親氏の末裔となる松平太郎左衛門家が400石余の交代寄合として居館を構えたところです。現在、松平東照宮では親氏の偉業を称える天下祭りが行われ、松平氏が産湯として使った「産湯の井戸」の神水は、不老長寿や安産に、霊験あらたかとして参拝者に授与されています。
死去
親氏の没年月日はわかっていません。伝承は10通りあり、康安元年(1361)から応仁元年(1467)まで約百年の差があります。親氏が死去した時、親氏の子、のちに松平三代となる信光が幼少であったので弟泰親が三年半の間、名代をつとめたといいますから(松平氏由諸書)、信光の生年を加味して類推すると応永20年(1413)ないし21年が一番妥当と考えられています(平野明夫『三河松平一族』)。親氏の働きは二代泰親、さらには三代信光へと引き継がれてゆきます。
※この記事は2014年01月10日時点の情報を元にしています。現在とは内容が異なる場合がございます。