はじめに

 平成25年度に西尾城二之丸整備事業として天守台と二之丸丑寅櫓台が復元された。平成8年に復元された本丸丑寅櫓、二之丸鍮石門とともに城跡としての景観が整備されつつある。
 しかし、江戸時代の西尾城は現在の歴史公園である本丸と二之丸だけではなかった。西尾城は、外郭の城下町まで含めると南北約1キロにも及ぶ大きな城であり、明治初期の廃城後に建物は壊され、堀は埋められたが、市内の各所に城の遺構を見ることができる。西尾城の隠れた見どころを紹介したい。

1. 西尾城の特徴について

 西尾城の歴史については西尾城物語①で触れているので、今回は西尾城の特徴を3つ紹介したい。一つ目は、二の丸に天守があったこと。二つ目は、堀に中島があったこと。三つ目は、城下町を堀と土塁で囲む惣構えになっていたことがあげられる。
 天守が本丸以外にあった城は加納城(岐阜市)、徳島城、忍城(行田市)などがあるが、それらは厳密に言うと天守ではなく三階櫓と呼称されていた。天守に限れば西尾城は全国で唯一、二の丸に天守を持つ城である。西尾城では、天守の他に三重櫓が2基、二重櫓が10基も建てられていた。特に三重櫓が天守の他に2基もある城は譜代大名の城としては珍しく、多くの櫓が林立する近世城郭であった。
 西尾城の縄張は梯郭式で、台地の端に本丸と二之丸を配置して、本丸の前には馬出である姫丸を築き、その外に北之丸、東之丸を築き、更にその外に三之丸と帯曲輪を築いている。その外にある城下町を堀と土塁で囲む惣構えになっていた。
 惣構えには5つの門があったが、三之丸は大手門と新門の2つ、東之丸には太鼓門が1つと、本丸に近くになるにつれて門の数が減り、防備が厚くなる求心的な縄張となっている。

2. 西尾城の遺構を歩く

 西尾城跡や城下町を歩きながら隠れた遺構をみてみよう。散策に際しては歴史公園内の西尾市資料館で配布している「西尾城下町歴史小径散策マップ」を手に歩くとわかりやすい。

本丸

 江戸時代には本丸の四隅に櫓があったが、現在は3つの櫓台が残る。このうち御剣八幡宮の裏にある丑寅櫓は三重櫓であり、木造で復元されている。本丸は戦いの際には最後の砦となるが、平和な時代には御殿や政庁である二之丸が実質的な中心であった。
 江戸時代には本丸内部は御剣八幡宮以外の建物はなかった。城内に神社を祀る城はあるが、本丸にあった城は珍しい。現在は戦後に祀られた西尾神社も鎮座している。本丸には織田信長が鷹狩りの時に使用したと伝えられる井戸や御剣八幡宮の前には表門の礎石が残っているのでお見落としなく。


本丸丑寅櫓
平成8年に発掘調査に基づき木造で再現された。二之丸側は堀際まで石垣が残っている。本丸の堀は広く近世城郭としての威厳を見せている。


二之丸

 二之丸には天守と御殿があり、実質的な西尾城の中心でした。現在は天守台と丑寅櫓台、土塁、鍮石門が復元されている。縄張的に見ると本丸と二之丸の関係は、二之丸は本丸側に門を作らずオープンになっていることから、本丸が優位にみえるが、巨視的に見ると曲輪の配置は並列的な関係と見ることもできる。特に二之丸は東之丸との連結部に長蔵と内食違門と外食違門を作ることにより、馬出空間を連続して作ったことは、本丸と姫丸の関係を再現したものといえる。

姫丸

 姫丸は本丸の前に位置し、馬出の役割も担った。現在は中央に道路が貫通していて、遺構はかなり失われ、西尾市資料館が建てられている。辰巳櫓の跡は現在も櫓台と土塁が残っている。姫丸と東之丸の間の堀は西尾小学校との間に残っている。


東之丸

 東之丸の大部分は現在西尾小学校の敷地になっているが、尚古荘の中に丑寅櫓台と土塁が残っている。尚古荘は米穀商の大黒屋岩崎明三郎氏が西尾城が姿を消すのを惜しんで城跡の一部を買い取り、庭園として残したものである。櫓台は石が庭園風に積まれ、その上に四阿が建てられている。また、四阿の南には土塁の跡も残っている。


東之丸丑寅櫓台
尚古荘の中に四阿として残されている。丑寅櫓は四間×三間の大きさと伝えられるので、本来の大きさよりも削られていると思われる。


北之丸・三之丸

 北之丸は歴史公園の北側に位置していた。現在は宅地となっているが、三之丸との間に堀の跡が台地の端に30m程残されている。大手門から西尾小学校に向かう道より一本西の細い道を歩くと、道路の一部が低くなっていて堀の跡を感じることができる。また、本町駐車場の西側は三之丸の東端で、その高さを実感できる。その近くには土塁の一部も残っている。


大手門

 錦城町の中善楽器の東辺りに大手門があった。大手門は大手黒門とも呼ばれ、2つの門を持つ枡形門で、曲輪の塁線から飛び出す外枡形であった。枡形門は内部で90度に曲がるものが多いが、大手門は2つの門が直線状に並ぶ形で、しかし、見通されないように2つの門の位置はわずかにずれていた。このずれは今も道路が少し曲がっていることに見ることができ、大手門の名残を感じることができる。


大手門跡
大手門の跡の半分は更地となっている。昨年度試掘調査を行ったが明確な遺構は確認できなかった。


新門

 新門の名前の由来は長く忘れられていたが、昨年開催された西尾城シンポジウムの中で再び注目された。西尾城の絵図の一つである「参州西尾城絵図之覚」は、新門の代わりに本町口が北寄りに記されている。後に本町口が廃されて新たに南に門を作ったために新門と言われるようになったようである。
 一般的に外枡形は出撃用、内枡形は防御用と言われるが、新門は内枡形、大手門は外枡形と西尾城では機能分化していた。
 伝想茶屋の前に石碑と説明があり、道を挟んだ北側に枡形の名残の土塁の跡が見られる。

追羽門

 西尾城の惣構えには追羽門、丁田門、須田門、鶴ケ崎門、天王門の5つの門があった。そのうち面影を残す追羽門と須田門の跡を訪ねてみたい。追羽門は大給町にあり、五門の内唯一の櫓門であった。門から4回曲がって中町筋に入る道の樣子が今でもよく残っている。路地の入口のガレージの前に石碑と説明が建てられている。

須田門

 西尾八景の中にも取上げられた須田門は須田町にあり、西尾城の中では通行の多い門であった。枡形門で、現在も門の跡は道路が曲がっていて、門があったことを偲ぶことができる。石碑が電柱脇に建てられているが、すこし分かりにくい場所にある。


外郭の土塁

 西尾城の外堀は埋められているものの、鶴舞町から馬場町にかけては、地形が高くなっているためその痕跡をたどることはできる。特に弥生町では土塁が約30mにわたって残っている。また、伊文神社の東では今も外堀の跡が水路となり痕跡をみることができる。


外郭の土塁
盛厳寺の裏辺りの弥生町に高さ4mほどの土塁が残っている。前の道は堀の跡である。


 このように西尾城の痕跡は城下のあちらこちらに現在も見ることができる。一度歩いてお城の痕跡を訪ねてみませんか。


西尾市教育委員会

石川 浩治