雲英晃耀肖像

雲英晃耀肖像


占部観順写真

占部観順写真


幕末から明治にかけて、現在の西尾市域に二人の著名な仏教学者が出た。雲英晃耀(1831~1910・一色安休寺)と占部観順(1824~1910・西尾唯法寺)である。開国と維新・大浜騒動などの激動期を歩み、多数の門弟育成も怠らなかった。ただ晩年の二人の歩みは、互いに色彩の異なるものとなってしまった。


目まぐるしく変化する当時の時代世相、殊に明治初頭の「神仏分離」にともなう神道国教化政策や「耶蘇教」(キリスト教)対策のため、明治元年(1868)東本願寺は「護法場」を置いた。これに呼応し、三河にも「三河護法会」が結成された。全国的にも三河にだけこうした動きが見られたのも、この二人の存在が大きかったのであろうか。会員だけでなく、この地域の多くの僧侶が、本山からの指導者や彼らの講義を各所で聴講した。時代の危機感からであろう。

雲英晃耀の専門は、仏教由来の論理学で「因明学」といわれた。しかし、この時点で重きを置いたのはキリスト教であった。200年以上禁教が続けられ明治を迎えても継続されたが、西洋文明の流入とともに各地に忍び寄っていた。内密裏に漢訳のキリスト教本を入手したり、弟の猶竜(後の関信三)が明治初年に本山の密命により長崎に潜伏し洗礼を受けるなどして得た情報を入手したりした。晃耀のキリスト教論は、遠大かつ緻密でおそらく宗門きってのキリスト教研究者であったかもしれない。彼の講義書『護法総論』は、香山院龍温(本山学寮・護法場嗣講)の著述が元になったといわれる。晃耀自身も、文久元年(1861)親鸞聖人六百回御遠忌法要直後に横浜へ行き、天主堂を実見して威風堂々の姿に驚いている。こうしてキリスト教を肌で感じた晃耀は、僧侶たちに危険宗教として各所で講じている。

そして、晃耀の『護法総論』の冒頭には、「凡オヨソ学問ニ二ツアリ、一ニ破邪、二ニ顕正、顕正セズンバ、神儒仏ノ三道ヲ真立スルコトアタハズ、破邪セズンバ神儒仏ノ三道ヲ護持スルコトアタハズ」「当今ニオヒテハ、英国製ノ切支丹ノ徒類、神国ニオヒテ 昔ヨリ鼎立タル神儒仏ノ三道ヲ滅シ、終ニ我国ヲ呑睡セント欲ス、此治世ニ至リテハ三道ヲ学ブモノ、兄弟争ヒヲヤメテ切支丹ノアナドリヲフセガズンバアルベカラズ……」とある。

もともと仏教を批判していた神道者や儒者とも、一丸となって対処すべきとの護国観が伝わってくる。一方で、国教の国学は平田篤胤の説くものを主流とするが、平田国学の創世の視点はキリスト教と近似していることを見抜いていた。

占部観順は、晃耀より7歳年上で大坂了願寺(現西成区)に生まれた。東本願寺高倉学寮において占部孝順に請われて24歳で唯法寺に入寺した。彼は寺内に「破塵館」を設け、晃耀同様に多くの門弟を育成した。仏教や真宗の学問に精通するだけでなく、観順もキリスト教に関心を深めていたことが、近時の唯法寺調査で明らかになった。

8月末まで岩瀬文庫で開催された「三河大浜騒動一五〇年」展で、観順が関与して出版されたとみられる『邪正問答和解』の版木が初公開された。これは、キリストの磔の挿絵を入れ嫌悪感を強調したキリスト教批判書である。こうした点では、晃耀も観順も同じ立ち位置であった。

明治4年(1871)3月、石川台嶺を中心とする三河護法会の三十余名の若手僧侶が、菊間藩の宗教政策とこれに呼応した真宗寺院二ヵ寺に対し決起し、鷲塚(碧南市)の庄屋宅で談判に及び、追随した多数の民衆により役人一人が殺害されてしまった。これが「大浜騒動」である。「大浜にヤソが出た」という風聞が人々を引き寄せた。「ヤソ」(キリスト教)なる言葉は、民衆にも危機感を抱かせた。本山護法場だけでなく、三河護法会を中心に晃耀・観順二師の破邪・排耶の講説は、大浜騒動に少なからぬ影響を及ぼしたのであろう。しかしながら、騒動後の同4年6月、三河僧侶の代表的立場から晃耀・観順ら5名は「鎮撫役」に任じられる。また、観順は台嶺らの助命嘆願に動いたことも知られる。二人は学僧として、この騒動をどのように総括したのであろうか。


キリスト教解説書等版木

キリスト教解説書等版木


雲英晃耀社中名簿

雲英晃耀社中名簿


明治13年(1880)11月、この両者は京都東本願寺廟所(大谷祖廟)に石川台嶺らの顕彰碑の建立を要請した。実現には至らなかったものの、騒動関係者を「顕彰」する最初の動きではなかろうか。


また観順は、この頃から始まる東本願寺再建事業の中で、三河門徒の製瓦事業の監督的役割に就いた。

一方、晃耀は司法省にて全国の裁判長に因明の要領を講じており、学問領域を司法や政治の場へも広めた。そして63歳で、高倉学寮最高学階「講師」に任じられ、さらに多くの子弟を養成した。

観順も度々本山学寮において講義を重ね、68歳で講師に次ぐ嗣講に就任した。しかし、教義上の微妙な解釈の相違が「異安心事件」へと展開していった。「異安心」とは、正当な解釈と異なる理解をすることで、江戸時代から度々露顕している。観順は、「後生タスケタマヘト弥陀ヲタノム」(御文)において、「タスケタマヘ」とは(弥陀に)お任せ〈信順〉説であるのに対し、請い求むる〈請求〉が宗門の正当であるとして、異安心とされ今では考えられないほどの大問題となった。

当時の東本願寺は、清澤満之らを中心とした宗門改革運動の最中で、満之も観順の理解者の一人であった。だが、これにより観順は大谷派を擯斥され、興正派(明治初頭に西本願寺より分派した興正寺を本山とする教団)へ転じた。そして、興正派の学僧のトップとして活躍することになる。この地域での観順の信奉者は桁外れに多く、西尾・岡崎・豊田・幸田などに計七ヵ所の説教所が設立された。これらの多くは現在も存続し、中には寺として機能している。学僧としての観順も、晩年には布教者として数多の真宗門徒を育て、脈々と承け伝えられている。幸田町一乗寺が興正派の拠点寺となったが、観順没後二十余年を経た昭和17年(1942)大谷派への復帰とともに「講師」を追贈された。


一色町安休寺

一色町安休寺


西尾 唯法寺

西尾 唯法寺


幸田町一乗寺

幸田町一乗寺


幕末から明治にかけてこの地に活躍した二人の著名な学僧は、鎌倉・室町時代以来この地域に根付いた仏教や浄土真宗の教えを生涯かけて学び指導した。その立脚する足場を時に同じくし、時に離別したが、ともに生き抜いた社会に多大な影響を与えた。そしてこの後、三河には幾人もの学僧が現れた。


真宗大谷派蓮成寺住職  同朋大学仏教文化研究所客員所員

青木 馨