西郷信貞の活動
知られる所の少ない西郷信貞ですが、その事績のいくつかを辿ってみます。家督を継いでまもなくの永正8年(1511)に、成就院屋敷の境を定めています(信光明寺文書)。これが信貞の活動として同時代史料で知られる唯一のものです。成就院は古くからありましたが、信貞の菩提寺といわれています。明大寺岡崎城の東側200mの位置にあり、城下整備の一環として援助したのでしょう。信貞は明大寺岡崎城を本拠にさらに山中城(岡崎市舞木町)をとりたて(『三河物語』)、清康に対抗する軍事力の強化を図ったようです。また、後に「山中譜代」と呼ばれる家臣団の整備に努めた事も想定されます。信貞の事績の一つに知多水野氏との縁組が知られ、信貞の娘が水野忠政の室となり、水野信元を産んでいます。これは岡崎松平氏の地位の高さと考えられていますが、周囲の領主同士の連携策で、その中で自分の存在を確かなものにするためでしょう。
信貞が清康に対抗して、西郷氏の流れをくむ岡崎松平氏の領主としての基盤を強化しようとしたことは、想像に難くありません。この頃松平各家の主導権争いが激しくなっていました。したがって、西郷頼嗣の子で西郷を名乗ったというような伝承が伝えられたことは、事実はともかくあり得たことと人々に考えられたと思われます。しかし、冒頭で述べた通り信貞は清康に屈服し、その後まもなく大永5年7月に死亡しました。
明大寺にあった西郷氏の城館
西郷氏は明大寺に二つの城館を伝えています。明大寺西城と東城です。西城は現在の万徳寺辺にありました。東城は平岩城ともいい、これがこれまでに述べた明大寺岡崎城になります。後に、松平清康によって現在の岡崎公園の区域に本拠が移され、近世に続く岡崎城が構築されるのは、信貞が明大寺岡崎城を清康に譲った6年後の享禄3年(1530)頃からです。
なお、岡崎市は明大寺岡崎城(平岩城)付近の発掘調査を進めており、西郷氏や岡崎松平氏のあり様が今以上に明らかにされることが期待されます。
(今回で筆者の担当は終わりです。お読みいただいた方々に感謝申し上げます。)
「トテモ成間敷ト思召レ」
大永四年(1524)、明大寺(岡崎市明大寺町)を地盤として岡崎周辺を支配していた西郷信貞は、当時松平氏の雄になろうとしていた松平清康との勢力争いの末、「とても対抗できない」と考え、ついにその軍門に下ることになりました。この言葉は、『三河物語』が伝えるその時信貞が発した苦渋を込めたつぶやきです。
信貞は娘於波留(おはる 春姫とも)を清康に娶せて家督を譲り、その本拠である明大寺の岡崎城(同町字川端付近)を清康に明け渡しました。自身は旧領の大草(幸田町)に隠棲しました。
岡崎の西郷氏
岡崎の西郷氏は、南北朝時代の十四世紀の中頃、三河守護仁木氏の守護代として現れますが(総持寺文書)、仁木氏没落以後も岡崎周辺に勢力を保っていたようです。永享年間(1428~1440)に西郷清海入道稠頼(一般には、つぐより)は明大寺岡崎城の位置に新城を構築します(「二葉松」)。そして享徳元年(1452)頃からは後の岡崎城の位置に小さな砦を作ったといわれます。これは、徐々に西郷氏が地域を基盤とする領主に脱皮しようとする動きだったのでしょう。
寛正六年(1465)には、西郷氏が室町幕府の命に従って西三河の謀反人への征伐活動を行ったことが知られています(「今川記」)。しかし、15世紀末には稠頼の子に当たる西郷弾正左衛門頼嗣(よりつぐ)が岩津の松平信光に屈し、信光の五男(寛政譜)の光重を初代とする岡崎松平氏にとって代わられてしまいます。
途中で勢力の増減はあったかもしれませんが、150年弱が西郷氏の岡崎領主時代でした。岡崎の西郷氏は「知られざる西郷氏」と言うことが出来ます。
岡崎松平氏と信貞
西郷信貞は、西郷と呼ばれますが岡崎松平氏の三代目です。岡崎松平氏は、光重―親貞―信貞と続きました。光重は永正五年(1508)に、親貞も同じ頃に相次いで死亡し、信貞が跡を継ぎます。十六世紀の初頭のことでした。
さて、ふつう信貞は親貞の弟といいますが、実は西郷頼嗣の子とも言われます。岡崎松平氏の菩提寺大林寺の由緒には「西郷頼嗣の賢息である信貞」と言っています。したがって、先に述べたように西郷信貞と名乗り、松平信貞とも称したと言われます。ただし、信貞の出生や名乗りを確かめるためのよりどころは伝承や記録以外の良質な資料がほとんどなく、正確なことは分かりません。
※この記事は2013年07月10日時点の情報を元にしています。現在とは内容が異なる場合がございます。