吉良義尚が外護した華蔵寺 西尾市吉良町岡山 伴野勝利撮影


足利義満将軍就任後の情勢


貞治6年(1367)、将軍足利義詮が38歳で死去すると10歳の義満が足利氏の家督を継ぎ、翌年には征夷大将軍に補任された。斯波氏と細川氏の政権争いを経て、土岐康行の乱(1389〜90年)、明徳の乱(1391年)、応永の乱(1399年)などで有力守護の力を削ぎ、将軍権力を強化するなどして幕政は安定した。その間、明徳3年(1392)には南北朝の合一がなされた。また、義満は花の御所とともに一大禅宗伽藍である相国寺を創建、その落慶供養(1392年)には天龍寺供養にならい大規模な軍事パレードを挙行し権勢を示した。なお、相国寺供養の先陣随兵には吉良俊氏が供奉している。
 義満の跡を継ぎ第四代将軍となったのは子の義持であった。義持は応永35年(1428)に死去するが、将軍職を譲渡した子の第五代将軍義量は後継者無きまま先立っている。義持にはほかに将軍職を継げる子がなく、将軍継承問題が勃発したのである。この危機的状況を踏まえて、室町幕府は将軍家に次ぐ儀礼的地位として御一家(御三家)を創設した。御一家成立時の吉良氏の嫡流、西条吉良氏当主が吉良義尚である。


義尚の出自


 義尚は父吉良俊氏の長男として生まれ、各種「吉良系図」によれば弟に武蔵吉良氏を継承した吉良頼氏がいる。義尚の娘は斯波氏の嫡流斯波義健に嫁したが、義健が早世したため、その後出家し、秀本と号して京都尼門跡寺院本光院や京都尼五山の筆頭寺院である景愛寺の住持となり吉良氏の家名を高めている。
 応永16年(1409)には、すでに元服し、西条吉良氏の当主(上吉良殿)となっていると思われる。将軍足利義持から「義」字を拝領しているが、このことは、観応の擾乱の失墜から吉良氏が将軍家の信頼を回復したことを意味する。没年は宝徳2年(1450)ころであるが、享年は54ということがわかっている。官位は正四位下左兵衛佐。



華蔵寺を外護する西条吉良氏


 華蔵寺(西尾市吉良町岡山)は慶長5年(1600)、吉良義定がその父義安を開基として再興した臨済宗妙心寺派(元東福寺派)の高家吉良家の菩提寺で、義安以下最後の当主義周までの墓が整然と並んでいるが、実相寺(吉良氏菩提寺、西尾市上町)四世で京都東福寺の住持もつとめた仏海禅師(一峰明一)入滅(1349年)の地であった。
 義尚は応永16年(1409)、華蔵寺の一切経蔵建立に際し、重臣の巨海氏と大河内氏とともに外護している。華蔵寺は、西条吉良氏ゆかりの寺であった。元禄13年(1700)、吉良義央は華蔵寺に経蔵を寄進し、鉄眼版一切経を納めているが、これは先祖の義尚に倣ったものか。


吉良氏の浜松荘支配


普済寺山門 浜松市中区


 吉良氏は本領吉良荘のほかに現浜松市の主要部分を占める広大な浜松荘を支配していた。吉良氏と浜松荘の関係は南北朝時代初期の貞義の時代に遡る。観応の擾乱の際に一時没収されたが、代々の吉良家当主は、荘内の南朝の拠点であった鴨江寺(浜松市中区、高野山真言宗)の寺規を定めている。このことは、吉良氏が浜松荘の支配者であるという証である。
 義尚は応永26年(1419)、賀久留八幡宮(現賀久留神社、浜松市西区)の宝殿を大檀那として造立した。また、吉良氏は十三派(およそ四六〇か寺)の教派を数え、天竜川以西の曹洞宗の中心寺院であった普済寺(浜松市中区)を庇護している。同寺では吉良俊氏・義尚・義真の忌日法要の規則を定めており、吉良氏の位牌所でもあった。ちなみに豊川稲荷(妙厳寺、豊川市豊川町)は普済寺の末寺である。


賀久留八幡宮(現賀久留神社)本殿 浜松市西区

鴨江寺仁王門 浜松市中区


御一家(御三家)筆頭吉良氏


 御一家については、谷口雄太氏の心服する研究がある。その構成者は、吉良氏、石橋氏、渋川氏の三氏であり(吉良氏関係略系図参照)、共通点は、足利惣領家の「兄」の流れであること、鎌倉期に惣領家以外に「足利」と呼ばれたこと、足利の有力庶子家として独自の勢力を誇ったことであった。
 御一家成立の経緯は、前述の将軍継承問題に端を発しているが、その役割は、足利将軍家の「血のスペア」であり、斯波氏や鎌倉公方家(関東足利氏)を将軍継承候補から遠ざけるためであった。一五世紀中葉には確立していたとみられ、その家格は三職(斯波・細川・畠山の三管領家)と同格で、御一家筆頭の吉良氏はそれ以上であった。
 しかし、応仁・文明の乱(1467〜77年)以降、御一家の権威は将軍権威とともに弱体化しはじめる。それは、吉良氏にとって波乱に満ちた戦国時代という戦乱の世への突入であった。

【参考文献】谷口雄太『中世足利氏の血統と権威』(吉川弘文館、2019年)


西尾市史調査員

齋藤 俊幸