西尾城は、承久年間に築城と伝えられ、文献に残る天正13年の家康の命による城の改修、その後の総構えの城郭城下町の建設を経、江戸時代には六万石城下町のシンボルとして存在してきた。明治の廃城以降は、二の丸・東の丸には小学校、説教所、幼稚園、体育館など、公共色の強い施設が存在していた。現在は本丸には城の鎮守である御劔八幡宮が残り、平成8年に再建された本丸丑寅櫓がその姿をみせている。二の丸には鍮石門、二の丸丑寅櫓台、天守台、土塁の一部が復元されるなど、西尾市歴史公園として、城跡をしのばせるたたずまいをみせている。
 城域内では昭和の終わりころから、学校施設の新築や歴史公園整備などに伴い、発掘調査の事例が積み重なってきた。ここでは、これまでの発掘調査の成果を紹介しながら、地下に埋もれていた西尾城からわかることを考えてみよう。
 発掘調査の歴史は、昭和59年、西尾小学校のグラウンドの造成から始まり、その後、東の丸では平成元年の小学校校舎、平成2年の小学校体育館、平成24年の学童施設などの建設前の調査、二の丸では、歴史公園整備に伴う調査が平成6年、19年、20年、24年に、また平成6年には本丸の丑寅櫓の調査も行われた。そして、その結果、西尾城のあった場所は今から2200年位前の弥生時代中期頃から人々が住み始め、室町時代の西条城の時代を経、江戸時代の西尾城、そして明治以降の姿と変化していったことが明らかとなった。西尾城のある場所の立地が碧海台地の縁辺部であったことから古くから土地利用がされ、また、周囲からの防御性にも優れていたことから城が築かれるに至る。ここではその中から、西条吉良氏の居城であった西条城、西尾城の成果を中心に紹介する。
 西条吉良氏時代の痕跡は、室町時代の後半、都が応仁の乱に突入し、諸大名が都から各地へ下向していく頃からその姿を見せる。都の西条吉良氏の屋敷も焼失したといわれ、それに伴い下向してきたと考えられることから西尾城域での整備が始まったといえる。それ以前の痕跡については発掘調査からはうかがうことができず、調査の及んでいない本丸あるいは西条吉良氏の菩提寺である実相寺が所在する西野町地区などがその候補地ともいえるがいずれも様相が不明でありその成果が待たれるところである。発掘調査の成果からはこの時期の遺構には断面が台形や箱形の溝、それによって方形に囲まれた居館跡が二の丸や東の丸から確認されている(写真①・②)。その出土遺物の年代は15世紀の後半に当たることから、この時期は方形居館の集合体で構成された城館としての西条城の姿を想定することができる。


平成2年に東の丸にあたる西尾小学校体育館建設前に行われた発掘調査の全体写真。 (写真①)


平成6年に二の丸で確認された丸馬出しを形成している堀を含む全体写真。中央部の2本の太い堀が丸馬出しを形作っている堀で、その左側に馬出し空間を作っていた。写真右手のまっすぐ伸びる溝が居館を方形に囲んでいる溝の一部。(写真②)


二の丸の障子堀付近。(写真③)

 次の時代、16世紀中ごろ以降になると、今川、織田、松平(徳川)といった戦国大名による群雄割拠の時代となっていく。西条城もさらに強固な守りを固めていくため、より規模の大きな堀を掘削するなどし、防御性を高めていく。その時代に相当する遺構は、丸馬出しを構成する堀、堀底に堀障子を有する堀などを確認している。(写真③)これらを見る限りでは西条吉良氏が居を定めたと思われる時期の方形居館の併存した姿から、西尾城の本丸を中心に城郭が構成する求心性をもった構造に変化している可能性を示す遺構のあり方である。堀などから出土した遺物は16世紀後半ころのものがあり、こうした巨大な堀の掘削が、家忠日記の「天正十三年二月小、五日丁未、惣国人足にて吉良之城つきあげ候」という記事があり、それに相当する年代1585年前後をあげることができる。ただし、出土遺物の量は前段階に比べ少なくなっており、生活空間としての様相を垣間見ることが少なくなっている。
 その後、西尾城は天正18年(1590)には、豊臣方の田中吉政が治める。さらに江戸時代、寛永15年(1638)に着手した太田資宗による城下町の総構え化、それは最終的には明暦元年(1655)に完成する。これが現在も確認できるような城郭構造を持つ西尾城へと変遷をとげる。しかし、この江戸時代以降の西尾城の様相を発掘調査の成果から読み解くことができる遺構はその前段階に比べ少ない。東の丸では米蔵跡、武家屋敷の区画溝、貯蔵坑や武家の生活を示す陶磁器類が多量に出土している。一方、御殿があったとされる二の丸からは居宅を描いた絵図との照合から土蔵、井戸、塀の跡が見つかっているが、東の丸の武家屋敷に比べると陶磁器類などの生活道具の出土がほとんどなく、藩主が西尾にほとんど居城していなかった実態を垣間見ることができる。


天守台の石垣の最下部の確認状況 石垣が沈下しないよう、最下部に松による胴木をわたし、その上から石を積んでいる様子をみることができる。(写真④)

 江戸時代の西尾城を特徴づけることは、何よりも二の丸に天守があったことに尽きる。残された各種絵図には二の丸の北西隅に石垣積みの天守台の上にそびえる姿がえがかれており、整備の中でも天守台の位置を確定させることは重要な課題であり調査の目的の一つでもあった。平成20年の調査では天守台に関するデータは得られなかったが、絵図記載の井戸、土蔵、塀などの遺構が確認でき、そこから天守の位置を類推することとなった。そして、平成24年に追加調査を行ったところ、天守台のための造成土が確認され、現在の碧海台地の崖線よりも張り出したかたちでの天守台の造成が行われたことがわかった。この時点では石垣の痕跡は全く分かっていなかったが、基礎工事に入った後、最下層の天守台の石垣の一部と松材による胴木が見つかった(写真④)。時間が不足し十分な調査ができなかったことは残念ではあったが、石垣の石材には花崗岩(幡豆石か)が用いられていたこと、裏込め石は天守台の高さから考えても極めて薄いものであったこと、このあり方は石垣については本丸丑寅櫓の石垣と同様であり、石垣というよりも石張りといった方が表現として適切ではないかとも思われるほどで、これが西尾城の石垣の特長であろう。また、最下層の位置とそれ以前に確認された天守台の造成土の位置のラインとがうまく合わないことから、途中に犬走り状の施設の存在も想定できるような形となっているが、痕跡を確認したわけではないので想像の域を出ない。しかし、こうしたわずかな成果からも様々な可能性を導き出すことができるのが発掘調査成果の醍醐味でもある。

 このように、発掘調査からは、これまでわかっていなかった様々な情報を導き出すことができる。とくに、西条吉良氏時代の様相については多くのことが明らかになってきている。今後もこれまでの成果の精査をすすめることでより精緻な西尾城の姿をみちびきだすことができることを期待したい。


西尾市教育委員会

鈴木 とよ江