方巌売茶とは


現在の在原寺本堂

現在の在原寺本堂

方巌売茶は、決して知名度があるとは言えないが、いまや知立市域の歴史を語るにあたって、欠くことができない江戸時代後半の文化人・禅僧である。彼がどのような人物かというと、詳しくは『みどり』№116や『新編知立市史』をご覧いただきたいが、簡潔にまとめるならば、高遊外売茶翁を慕って煎茶の普及につとめ、伊勢物語所縁の名所八橋の荒れ果てた在原寺・無量壽寺を再興し、そこを拠点に諸国の名士・文化人と交流を深めた書・漢詩・明楽等に精通する禅僧、であろうか。少し横着な紹介になったきらいはあるが、概ね異論はないかと思われる。

方巌は昔から市域全体で知られていたわけではない。所縁のある八橋では『八橋村誌』(明治13年刊)に取り上げているものの、大正15年(1926)に刊行された『知立町誌』では郷土の人物に列せられず、昭和になって『史郷知立』(昭和26年刊)でようやく紹介され、『知立のあゆみ』(昭和41年刊)・『知立市史上巻』(昭和51年刊、以下『旧市史』)で本格的に叙述されるようになった。いわば、昭和中期以降に再発見され、注目を浴びた人物なのである。

その方巌については、従来、彼自身が記した覚書(いわゆる『独健帖』)や無量壽寺に残された過去帳などを用いて語られてきたが、近年の新編知立市史編さん事業における調査によって、方巌の発給した文書や彼が滞在した前後の八橋の様相を示す記録など、多くの関連史料が明らかになった。

今回はそれらの史料を中心に、方巌による在原寺・無量壽寺再興をあらためて考えていきたい。

方巌売茶以前の在原寺・無量壽寺

方巌が関わる以前の在原寺・無量壽寺がどのような様子であったのか、18世紀以降の地誌や紀行文から整理していこう。まずは無量壽寺からみていくが、当寺は多くの史料に登場するため、次に挙げる史料からまとめていきたい。ちなみに史料名直下の括弧内は、八橋往訪の年次が明らかな場合はそれを記し、定かでない場合は序や刊行の年次とした。
『国曲集』(正徳3年〈1713〉序)
『吾嬬路記』(享保6年〈1721〉刊)
『東路塩土伝』(同年序)
『としなみ草』(同年)
『友千鳥』(延享5年〈1748〉)
『紀行右よし野』(安永8年〈1779〉)

無量壽寺は来訪者に対して、在原業平作の本尊や業平像・厨子に納められた八橋の橋杭等の宝物(拝観料一〇疋という記載あり)、著名人の詠んだ歌の短冊を公開するとともに、住僧が八橋の縁起や由来を語り、ときには寺への宿泊を勧めて、もてなしていた。来訪者のなかには梶井宮など高貴な人もいたという。なお境内には業平竹やかきつばたを植えた二つの小池をもつ庭園が設けられていた。

こうした有り様をみると、十八世紀において無量壽寺が荒廃していたとは言えず、むしろ寺勢興隆であったと言えよう。

そして最も注目すべきは、方巌が八橋を訪れる二年前の享和3年(1803)、広島藩主浅野重晟の子長懋が広島下向中に無量壽寺を訪れたときの記録である。少し長くなるが紹介したい。

八橋の跡をたづねける辺に、無量寺といふてらあり。和尚むかへいれて、むかしのことゞもかたりきこゆるさま、いとみやびこのむ人と見へて、年ごろあつめためりし人々の短ざくなど取出して見せけり。方丈の庭には池ありて、所がらなるかきつばたをうへたるか、花はいまださかざれど、みとりの葉末、水きはきよくおひいでたるも、いとおかしく見ゆ。

もてなしや方丈に付随する池泉庭園の存在など前記の諸史料でみられたことを再確認できるとともに、このときの和尚も風流を好む人物であることや、藩主子息をおもてなしすることができ、かつ絶賛されるほどの池泉庭園およびその維持管理が可能な寺院経営状況であったことがうかがえる。

したがって、方巌が八橋を訪れたときに無量壽寺が衰退していたという従来の見解は明確な誤りであると言えよう。

一方で、在原寺は無量壽寺と比べて圧倒的に史料が少なく、紀行文一点と絵図一枚のみである。その紀行文『友千鳥』によると、在原寺は村はずれの森のなかにある堂のことで、この堂の前には五輪塔と小堂が建っていたとあり、挿絵に茅葺の堂が描かれている。そして「寺はなし」と記されるように、在原寺と称されど、寺としては機能せず、実質は堂であった。なお安永七年頃作成の「三州八橋山十境之図」でも「あり原寺」として小規模な堂が描かれる。栄えていたときの在原寺の様相は定かでないが、堂として認識されていたことを踏まえると、寺としては衰退していたと判断できる。

方巌はこうした状況下の両寺に関わっていくのである。

方巌売茶と在原寺・無量壽寺

文化2年(1805)9月22日、方巌は無量壽寺を訪れ、八橋山十境や無量壽寺の縁起、自作の漢詩を『独健帖』に書き残した。翌年正月になると無量壽寺から刈谷藩へ在原寺再建願が出され、翌月には早速方巌が在原寺の主(「三州八橋邑在原寺梅谷」)として、鳴海の豪商下郷勘左衛門へ山門造営の寄附金受領書を発給している。また下郷家側の記録『千代倉家日記』においても、先述の受領書や在原寺普請に関する記述をいくつか確認でき、これらの史料から方巌による在原寺再興は間違いないと言えよう。

続いて方巌は無量壽寺の再興に取り掛かったとされ、その際、文化六年初春に資金調達のため「八橋山杜若講中」と称する講をつくったという。

この典拠となる史料は、昭和51年(1976)の知立市史編さん時には無量壽寺に残されていたようで、『旧市史』に史料冒頭の写真や読み下し文が掲載されているが、現在は行方がわからず、原史料をみることができない。しかし、この読み下し文を見直すと、業平持仏の薬師如来と業平像を安置する「唐衣殿」を在原寺に造営し、八橋の古跡を再興することが方巌の目的であるということに気付く。読み下し文に誤りがなければ、この史料は無量壽寺再興ではなく、在原寺および八橋古跡の再興を願ったものである。『旧市史』の著者は、おそらく講の名称の「八橋山」という無量壽寺山号と同じ文言に惑わされたのであろう。ちなみに唐衣殿は造営された痕跡が確認できず、何らかの理由で取り止めになったものと考えられる。

このように方巌が無量壽寺を再興したことを裏付ける史料は今のところ存在せず、また庭園の改築についても明確な典拠が確認できないため、方巌の無量壽寺再興という積極的な評価は難しいと言わざるを得ない。方巌はのちに無量壽寺へ移り住み、文政11年(1828)2月に旅先の江戸で死去した。

方巌の死後も、幾人もの旅人・文化人が八橋を訪れ、その様子や由来等を記録に残したが、方巌に関して触れることはほとんどなかった。彼の志を継ぐ者や顕彰する者が少なかったことを見て取れる。

管見の限りであるが、唯一確認できるのは、足助の俳人板倉塞馬による記録『文辞記行』である。塞馬は訪れた在原寺の様子を、松間に薬師仏の一宇のみ残っていると述べ、50年前のこととして、方巌について次のように書き記した。

梅谷の方巌和尚、高遊外のあとをしたひ、自売茶翁と称して、此処に庵をむすび、八橋再架古沢といふ札を建て、しきりに再興の志をおもひ致されけるが、ほどなく又無量壽寺に住替て、その事をはたさずして遷化有ければ、住すてし庵さへいつかあれ〳〵て狐狸のふし処となれり。

すなわち、方巌は在原寺を拠点に名所八橋の再興を試みたが、さほど時が経たないうちに無量壽寺に移り、再興を果たさぬまま亡くなったとある。本稿で再検討してきたことと概ね一致しており、塞馬の記述は客観的で非常に的を射たものであることがわかる。

方巌墓石の碑文にある「当山再建」などの文言は、一見鵜呑みにしてしまいがちであるが、多角的な視点からの慎重な検討・判断が求められよう。


「三河八橋 杜若名所無量壽寺古本堂ト鼇頭碑及芭蕉翁碑」(愛知県図書館所蔵)大正3年に焼失した旧本堂を確認できる。


「方巌売茶像」(無量壽寺所蔵)右奥に描かれるのは、現存する竹製笈。


知立市歴史民俗資料館 学芸員

中川 貴皓