図1の7 岡崎のおもな古墳の分布図 

 矢作川の西側、かつての碧海郡矢作町内の7つの古墳群中(図1の7)最南部のⅦ宮地古墳とその北西部、いわゆる宇頭台地上のⅥ和志山支群については、№101で紹介させていただいた。その北側のⅤ宇頭南部支群とⅣ和志取支群(宇頭北部古墳群)については、№103で取り上げた。今回は3回目となり、矢作川西側の古墳の紹介としては、最後となる。
 №101では、全長約60mの前方後円墳の和志山古墳(陵墓参考地)、№103では、前方部が国道1号線に削られたが、ほぼ同規模の前方後円墳の宇頭大塚古墳と岡崎市内にしては、大規模な古墳であった。
 しかし、今回の地域は三菱自工の工場等が進出して以来、宅地開発が盛ん。約25年前、故斎藤嘉彦先生のおかげで小針遺跡の発掘調査に参加できた。その際、小針1号墳は三菱自工の社宅奥にあったのを見ていたから分かるはずと、2月初旬適当に車を走らせたが、辺りの様子は当時の野原から住宅地に変貌して、以前の面影が辛うじて残っているのは小針神明社のみ。探し回って、広い社員駐車場の奥でようやく発見できた。
 猿投塚古墳も、台地縁辺だから遠くからも見えた記憶があったのに、不明。やはり、探し回る羽目になってしまった。
 7つの古墳群中、残るはⅠ北野古墳群、Ⅱ橋目古墳群、Ⅲ小針古墳群。最北部のⅠ北野古墳群は、北野町字高塚および郷裏地内の標高約20mの中位段丘東縁に、数基分布していたことが、『矢作町誌』(1928年)に記されている。昭和39年(1964)と52年に行われた郷裏地内に所在する北野廃寺跡の発掘調査の際に、僧坊跡と講堂跡から古墳時代中期に比定される土師器や須恵器(図2)が検出された溝状遺構が発見されており、古墳の周溝である可能性がある。今となっては、北野廃寺跡の講堂跡に立って古墳の姿を想像するしかない。古代、この地に寺院を建設しようとした人は、どのような光景を見ていたのだろうか。当時既に古墳の溝しか残っていなかったのか、ちょっとは高まりがあったのか?
 次に南に下って、Ⅱ橋目古墳群。猿投塚古墳の北および東に4基、橋目町字割塚地内に1基の古墳が存在したことが『碧海郡誌』(1916年)に記されているが、詳細は不明。橋目町字新屋敷地内の標高約21mの中位段丘東縁に立地する猿投塚古墳へは、北野廃寺跡から南西に碧海台地縁辺の道路を車で数分。墳丘の裾部には黄色や白の水仙が咲き、紅白梅の花まで咲き誇っているので、説明板に気付かなかったら、きれいなところだなと思うだけで、通り過ぎてしまうかも。(写真1)頂上部には、一抱え以上の大石があり、表面には所々石が見える。頂上部からの東側の見通しは、住宅に囲まれて大して遠くまで望めないが、№103で紹介したⅣ和志取支群(宇頭北部古墳群)中の荒子古墳の頂上部からの眺めと、大変似通っていると思われる。古代、東から矢作川を渡って、低地部を歩いて来た人達は、小高い丘の端に人工的な高まりをいくつか目にして、どう思ったのだろうか。


図2 北野廃寺溝状遺構出土遺物

写真1

 この猿投塚古墳は、昭和55年(1980)7月に、岡崎市の指定史跡となり、昭和60年2月には市史編纂事業の一環として、測量調査がなされた。それによれば、円墳で、墳丘裾が道路などで削られて墳形が崩れてはいるが、墳丘南東側に円墳の名残をとどめているものと考えられる。直径は南北で約25m、高さ約4mを測る。(図3)内部構造や出土遺物についての記録は残されていない。
 最後にさらに南の、Ⅲ小針古墳群。小針1号墳(小針町字城跡123番地)の東約180mの小針町字的場に小針2号墳があり、小針遺跡発掘調査の際、わずかな痕跡をとどめていた。その他、『愛知県史蹟名勝天然記念物調査報告』(1932)や『矢作町誌』には、1号墳の付近に数基の円墳があったことが記されている。小針1号墳には、「昭和46年(1971年)名古屋菱重興産株式会社建之」とある説明板に、『小針古墳と大友皇子(第39代弘文天皇)の塚』として、「かつて14基あった古墳中、この俗称大塚は前方後円墳であり、周囲に円筒埴輪が巡らされていた。西大友町の大友神社の社志によると、672年壬申の乱で敗れた大友皇子は自害したと言いふらして、ひそかに一族の者数名と三河にのがれ、大海人皇子の謀反を怨み、悲憤にくれたが、ついにこの地で崩じ、小針字神田に葬られた。従者長谷部信次が大友天神社を創建し、皇子を祭祀した。大友という村名もこれに起因する」と、している。


図3 猿投塚古墳墳丘測量図

図4 小針1号墳出土遺物


 現状は、小針町字神田地内の小支谷に面した中位段丘縁辺に立地する。(写真2)墳丘はかつては直径約17m、高さ約4mを測る円墳であり、円筒埴輪を立てていたことが確認されている。墳丘の周囲が削られて、やや規模が縮小している。現在、矢作北小学校に所蔵されている遺物の中に、小針1号墳出土とされる土師質の円筒埴輪の基底部1点がある。(図4)残存高約19㎝、基底部の径18㎝を測り、断面台形の低い凸帯が一段めぐる。上部に円形の透し孔の一部が残っている。
 小針2号墳は、現在痕跡が残っていない。確か小針遺跡発掘調査時に、並行して発掘調査された。現在、小針神明社のこんもりした神社の森の西に広がる駐車場のどこかであると思われる。(写真3)今後、その存在を忘れ去られてしまわないように、何らかの標示が必要ではないだろうか。できれば、そこには西約180mに保存されている小針1号墳の説明も書いて、あわせて後世の人々の記憶に留めたいと願っている。


写真2

写真3


岡崎市文化財保護審議会委員

山田 伸子