吉良氏について
承久の乱の戦功で三河守護となった足利義氏は、伝説の類になりますが、西条城、東条城を築きます。子の長氏が西条城を弟の義継が東条城を継ぎました(『三州幡豆郡西尾城主由来書』)。長氏が吉良氏の初代です。
『今川記』に「室町殿の御子孫たへなは吉良につかせ」とあるように吉良氏は足利将軍家に次ぐ名門の家柄でした。室町時代には吉良氏は石橋氏・渋川氏とともに御一家とされ、その地位は管領と同等以上でした(谷口雄太氏「足利氏御一家考」)。
戦国期の吉良氏
吉良義安の父は西条城主吉良義堯です。義堯の妻は今川氏親の娘で、義安は、義郷、義安、義昭の三兄弟でした。義安の生きた時代は戦国時代の真っ只中で、義安もその動乱の中に巻き込まれていきました。
東条城主の吉良持広に子がなかったため、義安は持広の養子になりますが、天文六年(1537)に兄の義郷が戦死したため、西条城に戻ります。しかし、同八年(1539)、持広の死去により東条城も相続して、西条城には弟の義昭を城代として置き、義安は東条城主となりました。義安の妻は松平清康の娘(俊継尼)です(『西尾市史』)。
天文九年(1540)から織田信秀(信長の父)は安祥城(安城市)を攻撃するなど、三河に侵攻します。今川義元も同十五年頃より三河に勢力を伸ばしてきます。そして同十七年三月には岡崎市の小豆坂で今川義元と織田信秀は合戦に及び、今川軍が勝利を収めました。
天文十八年(1549)に西条城の吉良義昭は織田氏と結び今川氏に叛旗を翻します。この時に今川義元の軍師雪斎が起草して西条城の諸老に送った矢文が伝えられています。その中で、今川氏と吉良氏との特別の由緒を説き、今川氏の軍事行動に中立の立場を守るように説得しています。今回の反逆は外戚の後藤平大夫(義堯の妻の親)の奸計だったことがわかります。
義安も織田氏に協力したとされて今川氏により静岡県藤枝市の薮田に幽閉されます。薮田は今川氏三代泰範の墓がある長慶寺や今川氏の本拠だったといわれる花倉城の近くであり、今川氏に縁の地です。義安はそこで一男(義定)一女をもうけますが、永禄十二年(1569)に薮田で没しました(『新編岡崎市史』)。
義安が幽閉された場所は、下薮田の最林寺とも中薮田大屋敷地内とも言われます。最林寺の近くの麻疹(はしか)地蔵は義安にゆかりがあると伝えられています(種石昌雄氏「吉良氏第十四代東条義安考」)。
義安についての新説
近年、天文十八年に西条城で今川氏に叛旗を翻したのは、義昭ではなく、義安であるという新説が出されました(小林輝久彦氏「天文・弘治年間の三河吉良氏」)。それによると、今川氏は義安の反逆に対して西条城を攻め端城で武将を討ち取ります。義安は降伏し、その後一時は今川氏の一武将として加茂郡衣城(豊田市)攻めなどの軍事行動に参加しています。
しかし、義安は弘治元年(1555)に再び今川氏に反逆しました。この時に今川義元が荒川義広に宛てた文書によると、義安は弟の長三郎(義昭か)を水野氏の緒川城に人質に出して、西条城に水野氏の軍勢を引き入れたとあります。義安は家老の富永氏、大河内氏の勧めで織田氏に通じたようです。義元は吉良氏がどんな不満があるのかわからないと手紙に記しています。義元は西条城を攻め二百人余を討ち取るなどして鎮圧しました。
弘治二年(1556)には、織田信長自身も荒川山(西尾市八ツ面町)まで出陣するなど、その後も西三河地域は戦乱が続きました。
戦国期の吉良氏の事跡は史書の記述もまちまちで混乱しています。実際、義安の薮田幽閉の時期は天文二十二年説(『武徳編年集成』)、永禄三年(1560)説 (『西尾城由来記』)、同四年説(『家忠日記増補』)があります。義安と義昭の事跡も錯綜しています。しかし、義安は弘治元年(1555)の反逆後に薮田に幽閉されたと解釈するのが最も自然ではないでしょうか。吉良氏の史実を探るには尾張や美濃、駿河の当時の状況と照らし合わせながら一次史料に基づき検証する必要があるでしょう。
このように義安の人生は波乱万丈でした。吉良氏の事跡が混乱しているのは、義安の子孫が吉良氏の家督を継いだ為に都合の悪い部分が書き換えられた可能性も考えられます。
その後の吉良氏
義安の死後、子の義定は母(俊継尼)と三河に戻り、吉良庄で身を寄せていました。
義定は天正七年(1579)に徳川家康に面会して取り立てられ、吉良氏の家督を継ぎました。江戸時代には吉良家はその由緒ある家柄から高家として幕府に仕えました。その子孫が忠臣蔵で有名な吉良上野介義央です。
西条城
西条城は、約八百年前の鎌倉時代に足利義氏が築城したと伝えられています。西条城は、西尾城の前身ですが、現在の西尾城は近世城郭として新しく築かれたものです。
近年、西尾城の二之丸や東之丸の一部で発掘調査が行われて、西条城の遺構と推定される中世の堀や溝が見つかっています。しかし、鎌倉時代の遺構や遺物は見つかっておらず、義氏の西条城が現西尾城の場所に築かれていたことは考古学的には証明されていません。
西尾市上町には長氏の子満氏が創建した実相寺があり、付近には丸山御所の伝承もあります。西条城は初め実相寺付近に築かれたのではないでしょうか。
『今川記』によると西条吉良氏は常には在京していました。しかし、永正年間末頃(1520)から吉良氏の京での史料が少なくなり、天文七年(1538)を最後に吉良氏の京における消息が絶えるので(『大館常興日記』)、その間に義堯は吉良庄に戻ったと思われます。
吉良氏時代の西条城は武家の格式に基づき、将軍家の「花の御所」を手本にした主殿や常御殿、会所、庭園を備えた一乗谷朝倉氏館(福井市)や江馬氏下館(飛騨市)のような方形居館であったと思われます。戦国期には戦いに備え、天文二十年の今川義元感状にある「端城」といわれる軍事施設を伴う構造に改修されました。
西尾城の城主は江戸時代最後の城主大給松平氏が有名ですが、室町時代以前の西条城の時代ははるかに長く、吉良氏歴代の居城でした。
※この記事は2013年04月10日時点の情報を元にしています。現在とは内容が異なる場合がございます。