恨と更に思わず

この度、敵をなし給う事も、ちがいめ更になければ、恨みと更に思わず
―今度、お互いに敵同士になったが、気持ちの違いは全くなかったのだから、よもや恨みなどということは考えられないことだ。―

 討ち取った自分の敵松平信孝(のぶたか)の首を前にして、松平広忠(ひろただ)はハラハラと涙を流したと『三河物語』は伝えている。
 十六世紀の半ば(天文年間1532〜54)の松平家は、庶家の分立に苦しみ内訌を繰り返していた。徳川家康の父でその生母於大の夫である松平氏八代の広忠は、叔父の三木松平氏の信孝と松平家の覇権をめぐって対立・抗争を繰り広げていた。お互いの非力ゆえ、東西の戦国大名の助力がなくてはならなかった。
 そこで、広忠は駿河の今川氏と、信孝は尾張の織田氏の配下で勢力の伸長を図った。しかし、両者の動静は実は「松平家臣団」といわれた当時の三河武士層が左右していた側面も見逃してはならない。


松平信孝の墓石
信孝は岡崎城主として浄珠院に土地を寄進している。そうした由緒により、もとの菅生河原から境内に墓所が移されたと思われる。


信孝の墓がある上和田浄珠院
松平一族の教然良頓が開いた浄土宗西山深草派の古刹。境内のイチョウがみごとである。


松平信孝と耳取縄手の戦い


 松平信孝は、松平氏六代信忠の次男として生まれた。兄の清康は七代を継ぎ、信孝はねぶのき郷(岡崎市合歓木町)を、弟の三男康孝は三木(岡崎市三ツ木町)を譲られた。信孝は弟の死亡後、本拠を三ツ木に移し三木松平氏の初代となった、とされる。
 天文四年(1535)、尾張侵攻中に起こった清康の横死後、尾張勢が岡崎城を襲った戦いに信孝・康孝兄弟は活躍した。しかし、跡をとるべき甥の広忠は大叔父である桜井松平氏の信定によって岡崎城を追放され、岡崎城主には信定がおさまった。のち信孝は信定から岡崎城主の地位を奪ったらしいが、やがて広忠の岡崎城復帰運動に協力する。同六年広忠は、信孝と譜代家臣らの働きで、岡崎城に戻ることが出来た。
 広忠復帰に功のあった信孝は、岩津の松平氏や三ツ木の弟康孝の所領や家臣を合わせて勢力を増した。それを危惧した広忠は同十二年(1543)に信孝を家中から追放した。同じく『三河物語』は、この時の信孝の言葉を伝える。

何事ぞや。我、広忠へ対してご無沙汰の心、毛頭更になし。
―何ということか。私信孝は広忠をないがしろにするような気持ちは、毛頭考えたこともない。―

 しかし、家臣層の支持を失った信孝の弁明は入れられず、仕方なく広忠を後押しする今川氏の敵方織田氏に与した。一方広忠は翌年に実家水野氏が織田氏と和睦したことによって於大を離縁した。その三年後天文十六年、広忠は今川氏の全面協力を得るために竹千代(家康)を駿河に送ったのである。 
 天文十六年ころ、両者の対立は臨界点に達していた。それは、今川氏と織田氏との西三河を舞台にした激突小豆坂合戦の余波でもあった。情勢の不利を悟った信孝は、一発逆転を狙い広忠の本拠岡崎城の攻略を狙った。耳取縄手の戦いである。自身の本拠「岡の城」(場所は未確定・後で説明)から、南側から回り込み明大寺の町を抜けて、岡崎城の南の菅生河原に出ようとした時、広忠勢の矢にあたって討ち取られてしまった。信孝の首は、すぐさま広忠に披露され、その際に広忠が発したつぶやきが、冒頭で紹介した言葉である。


明大寺側から見た現在の岡崎城
昭和34年に再建された岡崎城の天守がビルの間にわずかに見える。


山崎城跡(安城市山崎町字城跡)
現在は、山崎神明社の境内である(南側から写す)。燈籠の右が、土塁跡で境内の北側に堀跡が残存している。絵図等では城の正面は西側にあったと見られる。


「山崎神明社々誌」
社前に掲示された社誌に記された山崎神明社と松平信孝との由緒。地元の伝承も含んで記述されている。


三河武士の動静


 四年に及ぶ対立の中、両者の勢力は増したり減じたりしたが、お互いに家臣層の動向に左右された。両者の駆け引きが伝えられる。信孝の本城三ツ木城攻めを前にして、広忠は信孝の家臣であった大竹氏・中根氏・内藤氏を自分の陣営へのスカウトに成功している。それは信孝陣営の弱体化であった。対する広忠自身も岡崎を追放後、松平譜代家臣層の後援で岡崎城主に復帰することが出来たのであった。信孝追放も家臣層の意向が働いた。二人の対立は、東西の大勢力に後押しされながら、その基底では三河武士の動静に左右されていた。松平氏が三河武士層を忠実な家臣とするのは、家康の時代を待たねばならない。

「岡の城」はどこ?

 信孝の本城であった三木城(岡崎市三ツ木町)は、かすかに城域が保存され、その簡素な形態も伝えられる。しかし一方、信孝が拠点とした「岡の城」は、位置が定かではない。岡崎市岡町の岡城説と大岡郷(安城市山崎町周辺)の山崎城説がある。岡城が信孝の手に属したことはほぼ間違いないが、山崎城は信孝が織田氏の助力で三木城から移った本城という考えも無視できない。しかも、両城共当時の主戦場沿いで南側から岡崎城を攻めるのに都合がよい。両城共後の時代に改修されたようで、わずかな遺構からも判断出来ない。


愛知中世城郭研究会

奥田 敏春