荒川城跡の土塁
西尾市八ツ面町土井に残る土塁。高さ2mの土塁が約30m残っている。一部は道路により削られている。


 荒川甲斐守義広は、西尾市八ツ面町にあった荒川城の城主でした。
 荒川義広は謎が多い人物です。まず、その名前も義広、義弘、頼持、義等、義虎、頼時と六つも伝えられています。
 墓も真成寺(熊味町)、法厳尼寺(寄近町)、不退院(上道目記町)と三ヶ所あります。

荒川氏の出自

 荒川義広は、東条城にいた吉良持広の二男でしたが、大永七年(1527)頃に荒川城に分出して、荒川氏を名乗りました。
 吉良氏は承久の乱(1221)後、三河の守護となった足利義氏の子長氏、義継から始まり、西条城(西尾城の前身)と東条城に分かれて西条吉良氏、東条吉良氏と称しました。
 応仁の乱の頃になると『今川記』に「東条西条つねに御仲よからず」と記されるように争いが続いていました。
 荒川城には戸ヶ崎氏から分かれた前期荒川氏の旧城がありましたが、当時は没落していたようです。義広はこの荒川氏の名跡を継ぐ形で分出しました。

戦国時代の荒川氏

 享禄二年(1529)に松平清康(家康の祖父)は、荒川城の支城であった高部屋氏の小島城(西尾市小島町)を攻め落とします。荒川氏は松平氏に降りました(『岡崎領主古記』)。
 天文六年(1537)に荒川義広は今川氏と結び西条城の吉良義郷を攻めたとありますが(『三河物語』)、今川氏では家督争いの花倉の乱が前年に起きており、この時期に三河へ出兵はありえません。これはもう少し後の事件と思われます。
 戦国期には、東条吉良氏は今川氏、西条吉良氏は織田氏に味方して、争いは続きますが、荒川義広は東条吉良氏の出のために今川方でした。
 今川義元は、天文十八年(1549)九月十八日に荒川山(八ツ面山)を拠点にして安城城、桜井城を攻めています。同年九月二十日には、西条城に吉良義昭を攻め、西条城は今川方になりました。義昭の弟義安は今川氏によって藤枝市の薮田に幽閉されてしまいます。今川氏は義昭を東条城に移して、西条城には今川氏の家臣を入れます。ここに吉良氏は今川氏によりその力を失ってしまいます。この辺りの年次等については、異説もありますが、主に『新編安城市史』に拠りました。
 また、最近発見された「今川義元文書」によると弘治元年(1564)に今川義元が吉良氏を攻めた際には、荒川義広は、幡豆(寺部城)、糟塚城(西尾市平原町)、形原城(蒲郡市)を固めていたことが確認できます。この時点では、荒川義広は、吉良氏をしのぐ勢力だったようです。弘治二年には織田信長が荒川城を攻めています。


荒川義広墓 
熊味町の真成寺にある荒川義広の墓。かすかに「荒川氏」の字が読める。


荒川義広墓
寄近町の法厳尼寺にある荒川義広の墓。隣には家老の中神氏の墓が並ぶ。

 このように荒川義広は、終始今川方でしたが、桶狭間合戦で今川義元が戦死すると、徳川家康に協力して西条城を攻めています。その功績で家康は異母妹市場姫を嫁がせています。
 しかし、永禄六年(1563)の三河一向一揆では、なぜか一揆方に組して、徳川家康と戦いますが、利あらず敗れて、家老の中神氏の寄近町の屋敷で永禄八年に病死したといわれます。
 義広の最後は、他に河内国で病死説、江州逃亡説、道目記町で戦死説、摂津国で戦死説もあり謎が多い人物です。
 市場姫との間には二男一女が生まれました。しかし、年齢的に三人の子が市場姫の子とするには無理があります。その後、市場姫は筒井政行に再嫁しました(『寛政重修諸家譜』)。
 荒川義広の子孫は尾張徳川家の家臣となっています(『士林泝洄』)。
 家臣の中神氏の子孫の家には市場姫が使っていたと伝わる鏡台が今も残されています。また、実相寺には義広筆と伝えられる「鹿紅葉」の絵が残されています。

荒川城跡

 荒川城は、『西尾市史』によれば、八ツ面町字市場にあり、東西七二間、南北八一間の規模でした。現在は八ツ面小学校の敷地となっていて、城跡の痕跡はありませんが、試掘調査によって運動場の東側と南側に幅四mの堀跡が見つかっています。
 また、字土井地内には、長さ三十mに渡って高さ二mの土塁が残っています。字土井の北側には堀跡を思わせる用水もあります。その北には字蔵屋敷があります。字蔵屋敷には年貢米を収める蔵が建てられていたと思われます。
 西尾市の中世城館では、米津城、室城など城跡の近くに蔵屋敷地名が残る城が多くあります。いずれも拠点的な城で、その地域のセンター的な役割を担う城館です。
 荒川城は八ツ面小学校の敷地内を中心として、字土井から字蔵屋敷まで広い地区がお城の範囲でした。求心的な構造ではなく、屋敷の集合体だったと思われます。このような形態は荒川氏が領主としての強い権力を持てず、家臣との力の差が少なかった性格を反映しているのではないでしょうか。
 荒川城跡を歩くと、現在残る地名や土塁などから、中世のお城の様子を想像することができます。


荒川城跡
現在は八ツ面小学校となる。台地端の高台に位置している。西に広がる田は字泡原といい、かつては沼田で要害地形であった。


市場姫使用の鏡台
荒川氏家老中神氏の子孫の家に残る市場姫が使っていたと伝えられる鏡台。蒔絵は荒川氏の桐紋が意匠されている。金具にも五三の桐紋が彫られている。


愛知中世城郭研究会

石川 浩治