今川氏発跡地の碑(西尾市今川町)


吉良荘地図 吉良荘は当時の矢作川(弓取川)を境に東条と西条に分かれていた

足利氏本家・庶流関係略系図


承久3年(1221)5月、ときの治天の君後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうと起こした戦い、いわゆる承久の乱が勃発した。乱はわずかひと月ほどで終結し、幕府側がこの戦いに勝利したことで、はじめて武士優位な時代がおとずれた。そして、幕府は最重要拠点である三河の地に有力御家人足利氏を配置する。戦功を挙げた恩賞として三河守護職と額田郡、碧海荘、吉良荘の地頭職が足利義氏に与えられたのである。今から800年ほど前のことで、やがて吉良荘を本拠とした義氏の子孫は「吉良」を名乗ることになる。のちに室町足利将軍家の特別な一門として重きを成した吉良氏800年の序章を辿ってみたい。


義氏の出自

義氏は文治5年(1189)、足利氏二代義兼の三男として生まれている。父義兼は世代的には源頼朝と同じで、頼朝政権に忠実に従い、頼朝の知行国であった上総国(千葉県)の国司である上総介を拝命している。この上総介という受領名は吉良氏、その分家の今川氏に引き継がれていく。義氏の母は北条時政の娘、頼朝正室北条政子の妹で名は時子と伝わる。したがって、頼朝と義兼は相婿である。また、義兼の母は頼朝の母由良御前の実家熱田大宮司家の娘で、足利氏は熱田大宮司家の縁者でもあった。
こうした将軍頼朝や執権北条氏との関係から、義氏は三男にして足利氏の家督を相続したのである。

吉良荘について


一色氏発祥之地の碑(西尾市一色町一色)

吉良荘について簡単にふれておきたい。荘名の由来は、太古より八ツ面山(西尾市八ツ面町)で雲母が採れたことに因むといわれ、雲母は別名「岐良々」といい、ここから荘園名の「吉良」に結びついたといわれている。
院政期は摂関家領で、その荘域は矢作川下流域の丘陵地と三河湾の海岸低地、旧西尾市、旧吉良町、旧一色町に広がっていたといわれるが定かでない。昭和8年(1933)に刊行された『荘園志料』では吉良荘内の村名として旧西尾市、旧吉良町、旧一色町内のほとんどの村や碧海郡の高畑、中島に加え、逆川、桐山、野場などの旧豊坂村(現額田郡幸田町)内の村名や鳥羽、西戸城といった旧幡豆町内の村名もみえる。なお、吉良荘は当時の矢作川(弓取川)を境に東条と西条に分かれていた。
荘園制が崩壊した江戸期以降も「吉良」の地名は残り、東海道から吉良荘の中心である西尾城下へ至る主要街道は吉良道又は吉良街道とよばれていた。また、市内の古文書にも「三州幡豆郡吉良荘○○村」といった表現がみられ、昭和20年代まではおよそ現在の西尾市域である旧幡豆郡とほぼ同じ意味として「吉良」が用いられていたことを付言しておきたい。

義氏の隆盛とその一門

義氏は通称「上総三郎」とよばれ、これは上総介の三男という輩行名であるが、この「三郎」という名は吉良氏嫡男代々の仮名となる。因みに元禄赤穂事件で著名な吉良義央の仮名も三郎である。また、武蔵守、陸奥守、左馬頭など武士が誉とする官途・受領名を拝命しており、なかでも左馬頭は源氏の棟梁であり、関東の支配者やのちに将軍になるものの象徴であった。
『尊卑分脈』によれば義氏には五男三女がいたが、このうち足利本家を継いだのは執権北条泰時の娘を母とする泰氏であった。泰氏の兄義継と長氏は庶子とされたが、この二人の系統がのちに「吉良」を称したのである。
足利氏の三河進出により、吉良をはじめ仁木、細川、今川、一色など三河の地名を苗字とする足利一門が大挙するようになったが、これは、この地に強固な基盤を創る必要があったからである。吉良氏のほかでは、その分家で守護大名、戦国大名として活躍した今川氏や三管領四職の一家で三河、若狭、丹後の守護を務めた一色氏は西尾市を発祥の地とする。

義氏と西尾城

西尾城は、かつて西条城といわれた吉良氏の居城である。築城年は諸説あるが、江戸時代の地誌で西尾市岩瀬文庫所蔵の『鶴城記』や『西尾城由来書』によれば、足利義氏が築いたとする。また、代々西尾城主の間では承久年中(1219~21)に義氏が創建したという認識でいたようだ。
築城後の吉良荘の中心は西尾城であり、その繁栄は現在に続く。今日の西尾市の発展のきっかけを作ったのは、足利義氏の西尾進出である。


西尾市史調査員

齋藤 俊幸