吉良氏最後の当主

 吉良義昭は、吉良氏最後の当主です。義昭は西条城主吉良義堯の三人の子(義郷、義安、義昭)の末子ですが、生没年は不明で、墓もありません。
 義昭の一生は戦乱に明け暮れますが、伝えられる事跡も錯綜していてよくわからない点が多くあります。これは江戸期の吉良氏は義安の子孫が家督を継いだために、吉良氏の負の部分を義昭がかぶっているのではないかと思われます。

今川氏との戦い

 戦国期の三河国は尾張の織田氏と駿河の今川氏という二つの戦国大名に挟まれて、東西から侵略を受けていました。吉良氏は今川氏の勢力下にありました。
 天文十八年(1549)に吉良義安は織田氏と結び今川氏に叛旗を翻しますが、今川氏に攻められて降伏します。その後、吉良氏は今川氏に従い衣城攻めで戦功を挙げますが、弘治元年(1555)に再び織田氏と結び今川氏に反逆しました(みどり81号参照)。
 この時に義安の弟の長三郎が水野氏の緒川城(東浦町)に人質として出されました(弘治元年10月23日付今川義元書状)。この長三郎が義昭のことといわれています。
 西条城は今川氏に攻められて吉良氏は降伏し、義安は薮田(静岡県藤枝市)に幽閉されます。西条城には今川氏家臣の三浦氏や牧野貞成が城番として入り、義昭は東条城に移されます。
 吉良氏の本拠は西条城であり、この時に実質的に西条吉良氏は滅亡しました。吉良氏の名跡は義昭が東条城に入って残りましたが、二度も今川氏に反逆した吉良氏が存続できたのは吉良氏と今川氏が特別の由緒があるためでしょう。

『信長公記』の中の吉良氏

 『信長公記』の巻首に吉良氏に関する興味深い記述が二つあります。
 「一、四月上旬、三川国吉良殿と武衛様、御無事御参会の扱ひ、駿河より吉良殿を取り持ち、相調へ侯て、武衛様御伴に、上総介殿御出陣。三州の内、上野原に於いて、互に人数立て備へ、其間一町五段には過ぐべからず」
 これは上野原(豊田市)の会見と言われています。『信長公記』の巻首は年代の記述がないのですが、弘治三年(1557)のことといわれています(『新編安城市史』)。
 武衛様とは尾張国の守護の斯波義銀のことで、駿河は今川義元、上総介は織田信長のことです。織田信長と今川義元が、それぞれ斯波義銀と吉良義昭を介して会見に及んだことが記されています。結局、この会見は互いに名門である斯波氏と吉良氏が席次をめぐって争い不調に終わったようですが、戦国大名である信長や義元も名家である斯波氏や吉良氏には一目置いていたことがわかります。
 さらに、同書には、吉良・石橋・武衛三人御国追出しの事として「尾張国端海手へ付いて石橋殿御座所あり。河内の服部左京助、駿河衆を海上より引入れ、吉良・石橋・武衛様仰談らはれ、御謀叛半の刻、家臣の内より漏れ聞え、即御両三人御国追出し申され候なり。」とあります。
 斯波義銀は信長によって尾張国守護の座についたものの、信長の傀儡だったため不満を持っており、吉良氏と石橋氏と諮って今川氏を海上から引き入れようと画策したようです。吉良氏は義昭のこととされています。
 この事件は桶狭間合戦の後とも言われますが(『織田信長の尾張時代』)、年代などについても諸説あり、義昭がなぜ尾張にいたかよくわかっていません。

善明堤の戦い

 永禄三年(1560)五月に桶狭間合戦で今川義元が戦死すると徳川家康は、織田信長と結び、三河統一を目指します。義昭は今川方として家康と戦うことになります。
 永禄四年四月、義昭は善明堤の戦いで、家臣の富永忠元の活躍で松平好景(深溝松平氏)を討ち取ります(みどり75号参照)。
 しかし、家康は東条城の回りの小牧・津平・友国・糟塚に付城を築いて包囲し、同年九月、藤波畷の戦いで富永忠元が戦死すると義昭は降伏します。東条城には青野松平氏の松平亀千代(家忠)が入り、東条松平となりました。
 近年、『家忠日記』の記事により善明堤の戦いを弘治二年とする説が出されました(『戦国人名辞典』)。もし弘治二年とすると、吉良氏と今川氏(深溝松平氏)の戦いとなり、この戦いの意義そのものも変わってきます。


鎧ケ淵古戦場
西尾市吉良町岡山・瀬戸にある善明堤の戦い関連の古戦場。現在は埋め立てられて景観がすっかり変わっています。黄金堤の公園内に鎧掛松の碑があります。


善明堤古戦場
西尾市下永良町にあります。松平好景がこの地で討ち死にしました。戦いの様子を記した継植松碑が建てられています。


三河一向一揆

 東条城の落城後、義昭は岡崎にいたとも吉良町岡山にいたともいわれますが、永禄六年(1563)に三河一向一揆が起こると一揆方の大将として東条城を奪回して立て籠もります。
 しかし、一揆の終結と共に劣勢となり、翌七年二月には東条城は家康に攻められます。家臣の大河内一族の奮戦もむなしく、義昭は再び降伏します。
 義昭は三河一向一揆の後、暫くは三河に止まっていましたが、佐々木氏を頼り、芥川の合戦(大阪府高槻市)で戦死したと言われます(『養寿寺本吉良氏系図』)。
 また、『岡崎東泉記』には出家して高山と号して京の六角堂にいたとあります。
 西尾市平口町の鈴木家文書に永禄八年の袖判宛行状が残されています。これを花押の形態から義昭の文書とする説があります(『吉良と上杉の歴史問答』)。それに従うと義昭は永禄八年まで三河に止まり、その後に三河を退去したことになります。


東条城 遠景
小高い山に築かれた様子がわかります。主郭の下には吉良氏の勧請と伝えられる八幡神社があります。北の鍛冶山にあった旧法応寺墓所には松平家忠などの墓がありましたが、近年移転されました。


東条城 門と櫓
平成4年に主郭に城門と物見櫓、柵が中世城郭風に建てられました。主郭は50m四方の方形でここに屋敷が建てられていたと思われます。


東条城

 東条城は、承久の乱の戦功で三河守護となった足利義氏が築城し、吉良義継が初代と伝えられています。しかし、義継が東条城にいた確かな記録はなく、南北朝期に西条吉良氏より分出した吉良尊義が東条吉良氏の始まりと思われます。尊義の墓は吉良町岡山の霊源寺(現在は花岳寺)にあり、岡山には吉良氏縁の寺院も多くあります。江戸期に陣屋が置かれた殿町という地名もあります。
 当時の城は居館が多く、初期の東条吉良氏の城は東条城ではなく、岡山付近にあった可能性があります。戦国期に戦いに備えて山城である東条城に移ったのではないでしょうか。
 東条城は城山という標高約30mの小高い山の上に築かれていましたが、山上に広い居館を構えた館城という構造でした。周囲は深田で要害な地形に築かれていましたが、縄張的には防御的な構造よりも屋敷的な要素が強い城でした。
 北側の鍛冶山付近には法応寺、良興寺、長福寺など多くの寺院が立ち並ぶ宗教的な空間があり、城の周囲には家臣団の屋敷が並び、城下には市場がある戦国城下町の代表的な城跡です。
 吉良氏滅亡後には、東条松平氏の居城となりました。現在みられる東条城はこの時代に完成したと思われます。


芥川城址
大阪府高槻市殿町にありました。芥川城は平城と山城と2つありますが、吉良義昭が戦死したとされる芥川の合戦は、どちらかの城をめぐる戦いだったのでしょうか。


東条城絵図
浅野文庫蔵諸国古城之図に収められています。周囲を深田に囲まれている景観がわかります。(広島市立中央図書館浅野文庫蔵「諸国古城之図」より「東条」)


愛知中世城郭研究会

石川 浩治