歩きながら声高々に念仏を唱え、托鉢に説教に仏法を広めることに一心な律僧を人々は〝念仏和尚〟といって親しんだ。この律僧が突然戒律の厳しい玉泉寺に若い尼僧を嫁として連れてきた。弟子も、村人も吃驚仰天である。昨日までの畏敬が悪言に変わる日々となった。
本真、諦真尼僧の弟
玉泉寺の生活は、従来と変わらず菜食二食で、托鉢に布教に走り廻る和尚こそ颯田海雲である。嘉永5年(1852)5月2日に吉田村伝蔵荒子(吉良町)の颯田清左衛門の次男として生まれ角次郎といった。すでに、本真、諦真と立派な尼僧の姉妹が生まれた信仰の篤い家庭に育った角次郎は、16歳になり自ら僧になることを決心し、平原村(西尾市)、最巌律寺の円海上人の弟子となり、師匠の一字をとって海雲と命名された。 円海上人の厳しい指導のなか、25歳になった海雲は、庫裡再建に走りだした。担ぐ幟りには「悲願 最巌律寺庫裡再建托鉢 仏子円海 弟子海雲」と大書し、西三河一円を行脚すること三年にして、その資金を得て庫裡が完成された。 明治16年には、浄土変相図と呼ばれる浄土曼陀羅の当麻、智光、清海の三曼陀羅の建立を決意し、浄財の勧募にかかった。京の賢集堂に依頼し、二本の曼陀羅は三吉家秘蔵の模写で、当麻曼陀羅は仏画師高橋正造氏の力作である。完成した三本の曼陀羅を本堂に祀り、円海と海雲は七日間の別時念仏会を修した。 30歳になった海雲は、師匠の命により、松平村赤原(豊田市志賀町)の玉泉寺十六世として普山するが、無檀家で山村の小寺である。
即興の歌を書いて説教
托鉢と説教の日々であったが、特に説教には、参詣者に即興の歌を矢立で短冊に書いて配る説教に人気があった。例えば「鍋田いね」様には「夜をこめてよなべするとはたのもしや いねぶりせずに念仏申して」
じっとできない海雲は、明治25年、37歳に大きな計画を立てる。
一丈五尺四方(4.5m)の大当麻曼陀羅とマンダラ堂の建立である。
資金の調達には、托鉢・小曼陀羅・来迎三尊仏等の絵を表装して領布するなど十三年間の月日がかかった。大曼陀羅は、丹羽敬淳氏(豊田市上郷町川端)に依頼した。丹羽氏が、七年かけた力作であった。
開眼供養は、33日間盛大に勤め、説教には宗派をこえた布教師が招待された大法要と大伝導会が催された。海雲を村人は「まんだら和尚」と呼ぶようになった。
布教には珍しい幻灯を使い、大曼陀羅図を大八車で移動する風変りな和尚と弟子の一行は名物になった。ある日の岡崎の自転車屋で鉄の輪の自転車を見た海雲は、直ちに買ってしまった。岡崎警察署に鑑札の申請をしたら三番であった。
海雲は法を広めるためには、貧欲なほどの行道と計画を立てていた。
その一つは「賽の河原の念仏踊り」である。念仏踊りの子供と、海雲、弟子による地蔵様を中心にした賽の河原の物語を、寺の庭、河原、墓地などで催した。廿五菩薩練供養が頭の中に浮かべば、大和当麻寺の練供養を模した廿五の木彫の菩薩面をはじめ道具を揃えてしまった。
無欲で一途な田舎和尚
海雲の法を広めるための強引な方法には批判をする人もあったが、熱心な協力者も多く、無欲で一途な海雲の姿に庶民は尊敬の目を向けた。自然に念仏を唱えることに引き込まれる不思議な力を持った田舎の和尚も、大正6年11月29日の朝、九久平の街角で、寺の行事のポスターを貼りつつ倒れてしまった。12月2日の早朝、63年の生涯を終えた。
語り尽くせない逸話の数々を残し、少しエッチで、ユーモアに溢れた和尚は、生涯菜食二食を貫いた頑固なほどの律僧であった。嫁にしたという若い尼僧はすでに身ごもっており、それを知って、救いの手を差しのべたのだった。
「まんだら和尚」の葬儀は、老若男女が玉泉寺に集い、まるで村民葬のような賑いであったと語られている。
※この記事は2010年07月10日時点の情報を元にしています。現在とは内容が異なる場合がございます。