「売茶肖像」(所蔵:無量壽寺) 知立市指定文化財
茶道具を入れた笈と一緒に描かれた方巌売茶翁の肖像。


 日本人になじみ深い「煎茶」に関する人物を取り上げたいと思う。江戸時代初期に中国より伝えられた煎茶は、後に禅の精神との結びつきを試みた高遊外売茶翁(初代売茶翁)によって、形式にとらわれず清談を交えながら煎茶を飲み交わす「煎茶趣味」が流行し、当時多くの文化人を魅了した。

 今回紹介する方巌(八橋)売茶翁(以降、「売茶翁」という)も高遊外売茶翁に魅了された一人である。ここで売茶翁を取り上げるのは、現在の八橋(現:知立市八橋町)の地と関わりが深い人物であるからだ。八橋は古くから、平安時代に在原業平が伊勢物語で「かきつばた」を句頭に歌を詠んだ地として有名であり、売茶翁も上洛の折か、文化二年(1805)八橋に至った。そこで、業平ゆかりの寺「在原寺」の荒廃した姿を目にし、その再興のため数年にわたる全国勧進の旅を決意する。そして、無事に寺の再興を果たした後、無量壽寺に入りかきつばたが咲く煎茶式庭園「心字池」の整備をおこなった。現在も伊勢物語ゆかりの地八橋と、かきつばた池が残るのは、売茶翁の功績が大きいといえる。

 さて、売茶翁が訪れたとされる全国の地には、売茶翁の書、茶道具などが残されておりその足跡を辿ることができる。そして、無量壽寺に残されている雑記帳「独健帳」には、売茶翁が各地を訪れた際に見聞きしたこと、出会った人物などが記されており、中には、書や詩、音楽など幅広い内容の記述がみられ、この地方の名士・文化人との交流関係もみてとれる。ここでは、特に興味深い内容を取り上げ、その人物についても触れてみることにする。


「独健帳」(無量壽寺蔵)
売茶翁が書いたとされる雑記帳。旅の記録や漢詩などが書かれている。

「名月や松にのつたり 離れたり」

 「独健帳」の記載によると、「辛巳仲秋望、秋挙宜彦及三五輩、吾八橋のいほりに月見の小集ヲ催し、おのおの句あり我も発句を言捨ぬ 八はし 翁」、右記の句は文政四年(1821)八月十五日に中島秋挙・兼子義玄(宜彦は若いときの名前)らと無量壽寺で月見をした際に売茶翁が詠んだものである。中島秋挙は碧海郡熊村(現:刈谷市)に生まれ、後に名古屋の井上士郎の門をたたき、西三河の俳人として名を残した。兼子義彦は、豊明村沓掛新田(現:豊明市)に生まれ、後の嘉永五年(1822)に在原寺に入寺し仏門に仕えた。中島秋挙の弟子として若くして俳諧を学び、幕末期には西三河地方の俳諧の巨匠として、芭蕉俳諧を慕い多くの門人を集めた人物である。このように西三河の文化人との交流も見逃せないものであり、禅や煎茶に関する知識以外にも売茶翁の文化的な教養の高さがうかがえる。


「日用諸記」嘉永六年(個人蔵)
売茶翁の法要を執り行った記述があり、花園寺田家との関係性がわかる。


一 諸佛加護徳
二 五臓調和徳
三 降魔随心徳
四 衆人愛敬徳
五 煩脳自在徳
六 睡眠自在徳
七 息災安穏徳
八 孝養父母徳
九 壽命長遠徳
十 臨終不乱徳


 これは「茶十徳」として売茶翁が「独健帳」に記したものである。「茶十徳」は茶をたしなむことで得られる効用10種を説いたもので、茶の種を日本で初めて植えたとされる明恵、侘茶を大成させた千利休もこれを記したことで知られる。売茶翁は、どこかで見たり聞いたりしたものを書き写したのだろうか、また自身の考えだろうか定かではないがこのように書き留めている。さて、「独健帳」にはこの地方の茶の栽培と売茶翁の関わりを物語る興味深い記述がある。それは「花園 彦九郎」の記述で、花園村(現:豊田市)で茶の栽培を始めたと伝わる寺田伝兵衛家の五代目当主(1784~1834:後に伝兵衛を襲名)の名である。寺田家は二代目伝兵衛が文学・茶道・華道に精通するなど、多くの文化人が訪れる家柄で、特に茶の栽培も含めて抹茶や煎茶に関する資料が多く残されている。そして、売茶翁との関わりを示す数々の書幅や、当主の日記などが残されている。また、茶の栽培についても売茶翁との関わりが指摘されている。寺田家に伝わる資料によると、文化八年すでに茶の収穫があったことがわかる。茶の栽培は実際に茶が収穫できるまで3~4年を要するといわれている。逆算すると、売茶翁が八橋にはいった頃と重なるのである。実際に売茶翁が茶の栽培に関わったという明確な記述はないがその可能性は大いにあると考えられる。


笠原氏系図(抜粋・永田友市『方巌売茶と『独健帳』』私家版2012)
売茶翁は宝暦十年(1760)に福岡藩士笠原四郎右衛門の三男として生まれた。


 「独健帳」から辿る売茶翁の足跡には、禅と煎茶を通じた多くの文化人・名士との交流がみえてくる。そして煎茶以外にも多方面から文化・芸術に精通した人物であったことは言うまでもない。今後、売茶翁に関する調査研究が進み、さらに売茶翁の人物像が浮かび上がることを期待してやまない。



売茶翁墨蹟(個人蔵)
どちらも寺田家に伝わる売茶翁の墨蹟。自然や季節を題材にしたものが多い。


知立市歴史民俗資料館 主事

池崎 友加里