深溝松平家は女性の活躍によって家が続いたと言い切っても過言ではない。前号では家を繋いだ女性である7代松平忠雄側室春を紹介したが、今号は家の基礎を築いた女性、4代家忠正室「水野君」を紹介する。

この人物、法名は照光院、落飾前の本名は不明である。水野君は、深溝松平家が所有していた『昭和10年10月 再調 深溝松平家略系譜家族之部』において用いられている尊称である。

水野君は水野忠政五男、緒川水野忠分の次女として生まれ、家忠に嫁いできた。残念ながら、生まれた年や家忠との婚姻の年、享年の記録はない。しかし、兄水野分長は永禄5(1562)年生まれであり、天正10(1582)年には家忠との間に長男忠利をもうけていることから、永禄7年前後に緒川で生まれ、天正7年前後に家忠の下に嫁いだのではなかろうか。孫忠房が当主となり10年経った寛永19(1642)年に死去しているので、享年も80歳前後となる。ところで、松平・徳川の家臣団は岩津・安城・岡崎の譜代家臣が中心であり、松平一門衆は家臣団の主軸から少し外れている。これには、大草松平家等の松平一門衆と松平元康との抗争や、家忠日記における徳川家康の呼び捨て表現等からわかるように、君臣関係でもなく同格でもない微妙な距離感があったことも、理由の一つであろう。しかしながら惣領としての家康の地盤が固まるなかで、徳川家と松平一門衆の間に君臣の関係が確立してくると、徳川家康との距離が非常に重要となってくる。緒川の水野氏は、家康の生母「大」の実家であり、家康にとって特別な家である。大の姪にあたる水野君と松平家忠の結婚は、深溝松平家にとって家康との関係を強化できる、これ以上ない大きな出来事であったはずである。

徳川家康に付き従い戦場を駆け巡り続けた家忠は、非常に筆まめな人物であった。日々の出来事を記録した『家忠日記』は戦国時代研究の必須史料であるが、そもそも、この日記は水野君のおかげで現在まで残されているのである。『深溝世紀巻七 烈公上』には、「孝公手書の日記を、祖母水野氏の遺笈に得たり」とある。家忠の手を離れた日記は、夫の温もりの残る遺品として、妻水野君が手許で大事に保管していたのであろう。時々、日記を読み返しながら在りし日の情景を思い浮かべていたのかもしれない。家忠以外の筆が指摘されている日記の挿絵も、ある程度の教養がなければ描けない絵もあることから、水野君が補筆した可能性も考えられよう。このように考えると、家忠日記は夫婦の協力で出来上がった一つの作品にも見えてくるのである。


水野君の尊称

水野君の尊称


さて、この水野君の影響を非常に色濃く受けているのが、息子忠利である。父の戦死により家督を継いだのが19歳の青年期であった。武骨・老練な深溝松平一門衆をまとめ上げる苦労は並大抵のことではなかったであろう。歴代に準じ、忠利は死をもって忠義を尽くすために、関ケ原への参陣、大坂の陣への参陣を家康に要望し続けている。これは深溝一門衆への配慮であったのかもしれない。忠利は幕藩体制の初期に、吉田という要地を治める松平一門衆として尽力したが、その後ろ盾となり支えたのが母水野君と水野氏であったのであろう。この水野君と水野氏に対する想いに満ち溢れているのが、島原藩主深溝松平家墓所に建立されている忠利廟肖影堂である。実はこの肖影堂、深溝松平家を表すものがどこにも存在しない。現在の肖影堂の軒丸瓦や露盤には深溝松平家の家紋である重扇が用いられているが、これは明治時代以降のものであり、江戸時代の杮葺きの屋根に用いられていた痕跡は確認できていない。また、廟に納められている忠利の木像も、飾太刀の外装や石帯に描かれているのは水野氏の沢瀉紋であり、扇紋は一切描かれていない。この塀で囲まれた敷地は、忠利の母への想いをくみ取りながら設計された、親子の空間ともいえる。


肖影堂旧露盤の沢瀉

肖影堂旧露盤の沢瀉


忠利木像石帯の沢瀉

忠利木像石帯の沢瀉


寛永9(1632)年に忠利が亡くなり14歳で家督を継いだ忠房は、吉田藩主に就任することなく刈谷藩へ転封となった。転封先が祖母の実家水野氏の地盤である刈谷というところが妙である。忠房は幼少時より忠利に帝王学を叩き込まれており、周囲から将来を嘱望されていた。この成長途中の孫に対し、祖母は為政者としての帝王学を叩き込んだことであろう。刈谷藩主であった17年間で成長した忠房は、前藩主の改易により混乱していた福知山藩を安定させたうえ、京極高国改易に伴う宮津城受取や内裏の造営なども成功させている。その手腕が島原藩への加増転封へと繫がり、江戸時代に名君として名を馳せることとなるのである。


島原藩主深溝松平家墓所西廟所、家忠墓と忠利墓肖影堂の間にひっそりと建てられている小さな五輪塔が水野君の墓である。最愛の夫から家を預かり、息子を支え、孫を教育し名君として世に送りだした60年近くの月日は非常に大きい。この月日こそ、水野君が家の基礎を築いた国母足る所以である。


深溝本光寺 水野君墓

深溝本光寺 水野君墓


幸田町教育委員会文化スポーツ課

神取龍生