お城にいない?お殿様

 江戸時代の西尾城主は、本多氏・太田氏・井伊氏・増山氏・土井氏・三浦氏・大給松平氏といずれも譜代大名で、幕府の要職を務めることが多かった。このため、基本的には江戸に居住することが常であったと考えられている。  多くの場合、国替えや城主の代替りがあると、直後に初めての西尾入りが行われたようであるが、どの位の期間在城し、その後にどれ程の頻度で国入りしたのかは不明である。京都や大坂での役目の際に立ち寄ることはあっても、おそらくは西尾に長期滞在することは稀であったものと思われる。  こうしたことから、残念ながら西尾城下に城主の足跡をうかがわせるものは極めて少ない。


写真1 御剱八幡宮


寺社の庇護と祭礼の奨励

 そんなお城にいない殿様たちが、城主としての威厳や領民への慰撫の姿勢を示す方法に神社仏閣の建設や再建があった。西尾城下にも歴代城主の肝煎りで創建や修理が行われたと伝えられる寺社は少なくない。中世の城主も含めて主なものを挙げれば、
・鶴ヶ﨑天満宮―吉良長氏・本多康俊・井伊直之
・満全町康全寺―吉良満貞
・須田町薬師寺―足利義氏
・葵町稲荷社―田中吉政
・中町縁心寺―本多康俊
・大給町妙満寺―本多俊次・増山正利
・順海町崇覚寺―増山正利
・瓦町勝山寺―三浦義理
・馬場町盛巌寺―松平乗佑
と数多い(旧領地からの移転も含む)。
 中でも歴代城主の尊崇が篤かったのは、西尾城本丸にある御剱八幡宮である。現在の本殿は、延宝6年(1678)に土井利長が再建したもので、その後も歴代城主による修理が頻繁に行われた。城主たちの西尾城と領地の安寧を強く願う心の顕れと言えよう。
 拝殿前には、現在も土井利長・利忠、三浦義理、松平乗佑の奉納銘が刻まれた石燈籠が立ち並ぶさまを見ることができる(写真1)。
 また、城下の産土神である伊文神社の祇園祭は、田中吉政以降、歴代城主の庇護を受けて次第に盛んになったという。土井氏の城主時代には、御剱八幡宮への神輿の渡御のために城内へ町民が入ることが特別に認められた。現在でも西尾の夏の風物詩として盛大に開催される祇園祭は、城主たちが西尾に遺した功績の中で最も身近なものではないだろうか。

三の丸東邸のご隠居様


写真2 松平乗全

 歴代城主のなかで唯一、長期間西尾に在城したことが分かるのは松平乗全(1794~1870)である。乗全は、幕末の嘉永元年(1848)から老中職を務め、安政2年(1855)8月に病のために職を退いた。同5年に老中に復帰したものの、万延元年(1860)に再び病気を理由に隠居した。この最初の療養時期と隠居後に乗全は西尾に滞在し、城内で最期を迎えた。明治に描かれた「旧西尾城絵巻」(個人蔵)には、三の丸の新門脇に乗全の隠居屋敷「東御住居」が描かれている。
 大給松平家の菩提寺である馬場町盛巌寺には、乗全と夫人の墓塔があり、自筆とされる肖像画が伝わっている(写真2)。赤色の五位の袍を着けた若い姿で、文武に秀でた文人大名らしい端正な姿が描かれている。
 また、安政3年(1856)には、同寺に七仏薬師を奉納した(写真3)。一ツ葵紋を飾った厨子に、延命息災の仏である七仏薬師と十二神将を納め、扉に「安政三丙辰初春/為我儕延命増福」「浄資縁西尾城主源乗全」と記す。乗全の最初の老中離職は、幕府内の対外政策や将軍後継問題に関わる権力闘争に敗れたためで、病気は表向きの理由だったとも言われるが、この仏像の奉納から、乗全が実際に病であったことがうかがわれる。同5年には四天王像も寄進している。
 さらに文久4年(1864)2月初午日には、葵町の奥屋敷稲荷社へ自筆の画額(写真4)と乗全の御殿女中が作った押し絵額(写真5)などを奉納した。箱書きによれば、乗全は毎年初午に江戸屋敷の稲荷社へ自筆の絵を奉納してきたが、隠居中なので西尾城内の稲荷社へ奉納したという。画額は、能「小鍛冶」の、刀匠三條小鍛冶宗近が稲荷明神の相槌で剱を鍛える場面を描いたもので、殿様の余技とは思えない熟練した画技を披露している(現在は西尾市岩瀬文庫に寄託)。


写真3 盛巌寺蔵 七仏薬師像・十二神将像

写真4 奥屋敷稲荷 扁額

写真5 奥屋敷稲荷 押し絵額


殿様の書画


写真6 崇覚寺蔵 扁額「天性山」

 ほかにも藩内の社寺に西尾藩主の書画がいくつか残されている。
 順海町崇覚寺の山門扁額(写真6)は、松平乗寛(1777~1839)の筆によるもので、寺の山号を隷書体で記し、裏面には「文化十二年夏四月於鶴城源乗寛謹書」等とある。乗寛は、西尾藩の財政の立て直しに尽力し、幕政においても京都所司代や寺社奉行、老中などの要職を務めた。寺社奉行は文化6年(1809)から10年と12年12月からの二度務めているが、扁額が書かれたのはこの間で、乗寛が一時、西尾に在城したことがわかる(現在は本堂内に掛けられている)。
 また城下ではないが、一色町満国寺に松平乗完(1753~1793)筆の扁額(写真7)がある。絹地に薄紅色の牡丹の花を繊細に描き、格調高い漢詩を添えたもので、宗紫石に沈南蘋派の写生画を学んだという、文人大名として名高い乗完らしい見事な作品である。
 また、これ以外にも元御用達商や旧藩士の家にも藩主の手による書画が伝わることがある。こうした作品は、殿様と西尾との関わりやその人となりを知る貴重な資料である。


写真7 満国寺蔵 扁額牡丹図


西尾市教育委員会

神尾 愛子