松平広忠正室於大の方(楞厳寺所蔵)


松平広忠は清康の子で、清康が殺された天文4年(1535)時にはわずか10歳であった。広忠は松平の内紛により、桜井松平家の信定によって岡崎を追われ、伊勢・遠江を流浪し、同六年今川氏の援助により岡崎に環住することができた。しかし、広忠も天文18年に殺される。松平氏は二代続けて当主が横死するという不幸が続くのである。

流浪する広忠

 広忠を岡崎から追い出した桜井信定は、尾張に拠点をもち織田氏とも関係を持ち、清康と敵対関係にあり、清康殺害は信定策謀説の妥当性もあることは七代清康のところでも述べたが、清康なきあとは、後継ぎの広忠を追い出し、信定は岡崎城主となったのである。
 天文四年(1535)12月、岡崎城を追われた広忠は、阿部定吉その他わずかの家臣に守られて伊勢国神戸に逃れた。ここに翌5年3月まで滞在した。その後、船で伊勢を出て遠江掛塚に至り、掛塚で夏を過ごしている。この間に阿部定吉らによって各種の政治工作がなされたと新行氏はみている(『新編岡崎市史』第二巻)。松平記によると、東条吉良氏の当主持広を通じて今川氏への助力を依頼している。同書によると、吉良持広は清康の妹婿であったので、持広は今川氏に、広忠を岡崎に移れるように頼みこんだという。その後、広忠は掛塚を立ち、今橋(豊橋市)、「世喜」(豊川市瀬木)、形原(蒲郡市)へ、そして室(西尾市)の城に9月16日に入った。室城は東条吉良氏重臣富永氏の城で、当時の城主富永忠安の妻は松平長親の娘というから(『西尾市史』二)、吉良持広が積極的に援助したことになる。室城に入った広忠に松平信定は攻撃をかけている。城は持ちこたえることができず、広忠は今橋、さらに今川義元をたよって駿府に赴いている。

岡崎復帰

 天文6年(1537)6月に至り広忠の岡崎帰還が実現する。大久保氏ら広忠に心を寄せる松平家臣らは岡崎城の留守を預かっていた信孝に有馬温泉への湯治に行かせて、そのすきをみて天文6年6月1日の夜に岡崎城に入って城を奪い取り、広忠を駿府から迎えたという。広忠を迎え入れるまでの大久保忠俊らの動きは『三河物語』が多くの紙数を割いて、その功績を力説するところである。松平信定は、岡崎家臣の動向を警戒して松平信定へ忠誠心を誓う起請文をたびたびかかせるが、『三河物語』では伊賀八幡宮の前で大久保氏に七枚起請文を三度まで書かせたという。広忠は帰城に功績のあった八国甚六郎・大久保新八郎・成瀬又太郎・大原左近右衛門・林藤助に十五貫文ずつ加増している(信光明寺文書)。この恩賞を宛がった文書は、天文6年10月23日に出された文書であるがこれには千松丸と署名している。千松丸は元服前の呼称である。広忠が元服するのは、同年12月で、吉良持広の一字を受けて松平次郎三郎広忠と改めるのである。

於大との結婚・離縁

 天文10年(1541)、広忠は水野忠政の娘於大と結婚。翌11年12月26日、家康が誕生する。於大は尾張小河城主水野忠政の娘で、母は華陽院(お富の方)とされる、広忠との婚姻は松平氏と水野氏との結びつきを強固なものとするための政略結婚であった。天文12年7月12日、水野忠政が没すると、水野家の後継者である信元が織田信秀方となったので、親今川路線をとる松平氏は於大を実家へ送り返した。同様な理由で形原の松平家広の室であった於大の姉も離縁されている。松平氏は一族をあげて今川氏方としての立場を明確にしたのである。天文9年より織田信秀の三河進出が激化し、安城陥落により織田氏の勢力はしだいに西三河に浸透していった。松平氏が織田氏に対抗するには今川氏の後ろ盾が必要であった。天文17年には小豆坂の地で織田氏と今川氏がぶつかり合う。於大との結婚・離別はまさに両勢力に挟まれ、生き延びる松平氏のとったこの間の政策の推移を反映するものである。


松平広忠廟所(松應寺)


死去

 天文18年3月6日、広忠は岩松八弥に斬殺された。享年24であった。岩松八弥は佐久間九郎左衛門全孝が送り込んだ刺客であった。『三河物語』では広忠は病死として岩松のことは記していない。二代にわたる松平家惣領の不慮の死を忌んだ作為と新行氏はいう(前掲書)。広忠の遺骸は喪を秘して大林寺に送られ、さらに能見原で埋葬された。永禄3年(1560)、息子の家康は父の荼毘の地に松應寺を建立して菩提を弔った。広忠の戒名は瑞雲院殿応政道幹(後に成烈院殿)といい、慶長16年(1611)家康の執奏により贈大納言となったとき、大樹寺殿に改められた。広忠300回忌にあたり広忠を祀る廟所の造営が大樹寺で行われ、多宝塔の北に嘉永五年(1852)完成している。残念ながら現存していない。広忠の死去のとき、松平氏九代となる家康は八歳であった。今川義元のもとでの人質生活から家康の天下取りのドラマが始まるのである。


松平広忠所用の鞍と床几(松應寺所蔵)


岡崎市美術博物館 副館長

堀江 登志実