松平氏五代目の長忠は安城に分立した安城松平家二代目である。長忠は、従来長親と紹介されてきたが最近は長忠とするのが一般的である。長忠の名乗りは古文書によって確認できるが長親は確認できない。忠次とする伝承もあったようで「松平氏由緒書」では忠次としている。はじめ忠次、もち長忠、入道して道閲と称したとするのがよかろう。

永正の三河大乱

 永正三年(1506)駿河守護今川氏親とその叔父伊勢宗瑞が三河へ侵攻してきた。これが同六年まで続く永正三河の乱の始まりで、長忠にとって最大の危機であった。『三河物語』によりその概略を記しておこう。

今川軍(名代伊勢宗瑞)は駿・遠・東三河の軍勢一万余を率いて西三河へ出撃。東海道を西上して岡で大平川を越えて根石原へ出、岡崎への押さえを置き、本隊は甲山・井田を過ぎて大樹寺を本陣とした。ついで岩津城へ押し寄せ、四方鉄砲を放って攻めかかったが、岩津殿(松平親長)がよく防戦した。安城松平の長忠は安祥の城を出て、桑子・筒針・矢作、矢作川を越えて井田野で今川軍と対戦。ところが、戸田氏が今川氏から離れて松平氏と結ぼうとしているとの噂を聞いた宗瑞は今橋へ引き上げる。諸勢も皆今橋へ退き、長忠も安祥に撤退する。

 今川軍の岩津攻めによって、岩津松平氏は奮戦したがそのほとんどが討死したと考えられている。この今川軍との戦いで安城松平氏の長忠は勇猛な戦いぶりを見せるが、これが岩津家に代り安城家が松平惣領家の地位につく契機となる。

隠居・家督相続


長忠と署名した文書(大樹寺蔵)

 長忠の発給文書のうち年号のわかるものが20点ほどある。これらのうち最初のものが長享二年(1488)で、明応五年(1496)12月まで長忠と署名するが、文亀元年八月の文書では法名の道閲と署名する。それゆえ明応五年から文亀元年のあいだに入道して、隠居、家督を譲ったというみかたがある。文亀元年八月には松平氏六代目信忠が禁制を碧南の称名寺に下していることもその根拠の一つになっている。しかし、永正三河の大乱の時の家督は長忠であるとして、永正以前の家督譲渡を否定するみかたもある。入道したから家督を譲ったとはいいきれない面がある。新行紀一氏も六代目信忠が名実ともに安城松平家の惣領となるのは永正の大乱後というみかたをしている。  長忠は道閲名で、息子六代信忠、曾孫の八代広忠とも連署した文書がある。長寿であったようである。『徳川実紀』は長忠について次のように記す。

長忠ははやくから遁世の志があったとし、いまだ壮年の年齢で落飾し、道閲と号し、信忠に家督を譲ったという。所領はすべて庶子に分け与え、風月を友として連歌を楽しんで80余の齢をたもち、曾孫広忠の時までながらえた

 信忠・広忠と連署した文書からは隠居人というよりも後見役として存在した可能性が考えられよう。

長忠と連歌


祐泉(信忠)と連署した道閲の文書(大樹寺蔵)

 長忠が連歌を楽しんだことは『徳川実紀』にも記されるが、同時代資料で確認できるものに、永正十五年(1518)4月26日、妙源寺(岡崎市大和町)での連歌師柴屋軒宗長や同寺住持秀蓮ら十四人との連歌の会がある。同寺にはその時の百韻連歌懐紙が残されており、長忠のほか、弟張忠の松平一族の作者名がみられる。同書には、連歌師宗長の十五句についで二番目に多い十句を道閲が詠んでおり、連歌興行が長忠主催だったことを思わせる。懐紙の冒頭部分を紹介しておこう。

常夏に庭のちりなき心かな 宗長
松に木たかき風のすずしさ 秀蓮
郭公有明の月にこえかして 道閲

 連歌師宗長の日記「宗長手記」によると、長忠の二男の信定(桜井松平)は大永六年、尾張守山の館で宗長を迎えて千句の興行を催している。

長忠と大樹寺、高月院

 長忠は永正の大乱で大破した大樹寺を再建し、寺領寄進、安堵を行っている。永正十年(1513)四月には大樹寺に燈明銭ならびに定香銭を寄進、七月には先住愚底、現住愚廓等に命じて、当寺永代の式目を定めた。大永八年(1528)には位牌田を寄進、享禄三年(1530)には塔頭花香庵へ田地を寄進、天文七年(1538)には塔頭の棹舟軒を起立し寺領を寄付している。長忠が隠居するのはこの棹舟軒である。これらの大樹寺への長忠の行為は、同寺が安城松平家の菩提寺であることの証しでもある。  長忠は大永二年、松平村高月院に田地を寄付している。また、同七年にも、高月院に寺領寄附状を出している。松平初代親氏、二代泰親、および母の墓を同寺境内に建立している。長忠の弟で岩津信光明寺住職だった超誉上人は知恩院住職を勤めたあと信光明寺に戻るが、その前に高月院に一時寓居している。

死去

 天文13年8月22日、長忠は没して大樹寺に葬られた。没年齢は『朝野旧聞裒藁』では72歳、『徳川実紀』は80余歳、『寛永諸家系図伝』は90余歳とばらつきがある。長忠の子には長男信忠のほかに、親盛(福釜松平の祖)、信定(桜井松平の祖)、義春(青野松平の祖)、利長(藤井松平の祖)がいる。


岡崎市美術博物館 副館長

堀江 登志実