その方、うたかい申事、神分~ 御座なく候
―豊後(広孝)殿、私家康はあなたのやり方に、疑問を持つことなど全くありませんよ―
永禄七年(1564)八月、東三河平定のため小坂井(豊川市)に在陣していた松平(徳川)家康は、本多広孝を軍議のために同地に呼び寄せました。それを伝える書状で、家康は広孝への信頼を語っています。
「お手紙拝見いたしました。御相談いたしましょう。こちらにお出で下さるのを、お待ち申し上げます。」家康の広孝を呼び出す書状は大変丁寧です。さらに心遣いか、書き足しに冒頭の文を添えています。家康の広孝への配慮がよく伝わって来ます。
広孝は渥美郡田原(田原市)近くで今川氏真勢に苦戦していたらしいのです(本多家の伝えでは、広孝は吉良で戦っていたとしていますが)。ここで、今川氏に対する作戦を改めて二人で協議するつもりではなかったかと思われます。
土井の本多広孝
本多広孝は、曾祖父秀清が松平氏から碧海郡土井(岡崎市土井町)を賜って以来、同地を本拠とするいわゆる土井の本多氏の四代目に当たる人物です。父は本多信重、大永七年(1527)土井に生まれました。はじめ松平広忠に仕え「広」の字を賜り、次いで家康に仕えました。永禄四年(1561)吉良義昭の拠った東条城(西尾市)を攻め落としました(「藤波畷(なわて)の戦い」で、本誌2011年秋号を参照のこと)。同六年反家康派の蜂起であった三河一向一揆に際しては、土井城に拠って家康のために大きな働きを果たしました。永禄八年には、田原城を今川氏から攻略し、家康の三河平定を助けました。
しかし、本多一族には家康の家臣として著名な人物が数多く知られています。それは三奉行の一人本多重次、四天王の一人本多忠勝、家康の知恵袋本多正信などですが、その中にあって広孝はあまり注目されることの少ない人物のようです。徳川十六神将にも加えられていませんが、広忠時代以来一貫して宗家を支えてきました。家康三河平定の先兵として働き、またその後の活躍も他の本多氏の武将たちに決して劣ることはありません。
三河一向一揆と広孝
家康の信頼を高めることとなった三河一向一揆の際の広孝の働きを、見てみましょう。広孝の居城である土井城は、反家康派の一翼を担った一向宗の盛んな地域のど真ん中に位置していました。東条城への備えとともに、周辺地域の村々への押さえとして構築され、家康から守備を任されていたと思われます。
永禄六年の秋、土呂(岡崎市福岡町)・羽根・針崎・若松(以上岡崎市)・大草(幸田町)・浦部(岡崎市国正町)・八面(西尾市)・佐々木(岡崎市)・野寺・桜井(以上安城市)―これらの村々の一向衆は反家康派の一揆に与しました。土井城へは、朝な夕な村々の人々が攻めかかって来ました。土井城には、広孝の家臣や家康からの救援の軍勢が集められていました。広孝は軍勢をまとめ村人たちを撃退し、さらに周辺の平定に向かったはずです。長男康重を岡崎城へ人質に差し出して、一向衆との対決の決意を示し家康を感激させました。
まだ一揆のおさまらないこの年の暮れ、早くも広孝はその働きにより家康から多くの褒美が与えられました。
―土井城は、広孝の城として与える。広孝の所領をもっと増やすこと。広孝が敵方の村々から借りた米銭は返さなくてよい。土井城に籠もって戦った土豪武士は、今後は広孝の家臣としてよい―
(家康の文書より意訳)
広孝は、破格ともいえる待遇を家康から受けました。広孝のこの時までの働きが大きかったことと、他の家臣への激励であったかもしれません。翌永禄七年の初春には上和田(岡崎市)周辺で激戦がありますが、やがて家康は一向一揆を治めることに成功します。(以上 『譜牒余録』所収文書 『寛政重修諸家譜』 他による)
土井城について
土井城は普通には、広孝の父信重が築いた本多氏の居城と言われます。しかし、本多氏の本拠は「下屋敷」といわれるもう一つの土井城と考えられます。ここで話題の土井城は、南北四〇〇mにも及ぶ連郭式の平城で周辺の武士が集められていました。したがってこの土井城は、織田信長と和睦した後、東条城を攻める時期に家康の拠点として構築されたと見られます。現在、わずかな高まり以外土井城の遺構はほとんど失われています。しかし絵図が残されまた史・資料と突き合わせることで、土井城のかつての様相と広孝の働きが知られます。
※この記事は2012年01月10日時点の情報を元にしています。現在とは内容が異なる場合がございます。