寺部城跡
寺部城本丸西の横堀。堀は両端が竪堀となり落ちている。本丸の切岸はシャープで高く防御性が強い。土塁の上に模擬的に柵が復元されています。


三河の小笠原氏

 幡豆の小笠原氏は『諸家系図纂』によると、弘安八年(1285)の霜月騒動の時に太陽寺庄(豊橋市)に逃れてきた小笠原泰房を祖としています。
 また、『新編岡崎市史』によると足利義満の時代の康暦二年(1380)に一色詮光が三河守護、小笠原長身が守護代に任じられています。応永十六年(1409)に小笠原氏は滅亡しますが、同書は幡豆の小笠原氏と守護代の小笠原氏との関係を指摘しています。
 幡豆の小笠原氏の系譜はこのように混乱しており不明な点が多いのですが、三河守護代であった小笠原氏に安芸守の名が見え、この系統であった可能性が高いと思われます。

寺部城と欠城の小笠原氏

 幡豆の小笠原氏には2つの家がありました。西尾市西幡豆町の寺部城の小笠原氏は安芸守家、欠城の小笠原氏は摂津守家と言われています。
 寺部城の小笠原氏は『寛政重修諸家譜』によると、小笠原定政が永正十一年(1514)逆臣早川三郎某が籠れる寺部城を攻落してその城に住んだとあります。内容について疑問視されていますが、早川姓は現在も寺部町にあり、小笠原家に伝えられた話に基づいていると思われます。
 定政の孫が広重です。広重は父の代から今川氏に仕えていましたが、桶狭間合戦後は本多忠勝の勧めで徳川家康に仕えます。
 欠城の小笠原安元も今川氏に仕えていましたが、同じ頃に家康に仕えます。安元の娘は広重の妻となっていて両小笠原氏の関係の深さがうかがわれます。この後、寺部城と欠城の小笠原氏は、徳川家臣として各地を転戦します。
 永禄六年(1563)の三河一向一揆では、広重は土呂、八面などの押さえをし、安元は欠城を守ります。翌七年に広重と安元は家康より幡豆知行などの起請文を貰っています。この時点では安元は富田新九郎と名乗っていました。富田氏は小笠原氏の一族とされています。
 『東照軍鑑』には永禄十年に御船手衆として小笠原安芸守、同新九郎と記されています。寺部城、欠城とも海に面して築かれており、小笠原氏が海事に関係していたことがわかります。


寺部城絵図
麓の居館と詰の城がセットになっています。寺部城と海との関係がよくわかります。(広島市立中央図書館浅野文庫蔵「諸国古城之図」より「寺部 三河幡豆」)


 永禄十一年には広重、安元は豊橋市の船形山城を守っています。次いで安元は、掛川市の高天神城主の小笠原長忠を説得して徳川方にしています。安元は、この功により、赤羽根・赤沢・芝の領地を貰い赤羽根城(田原市)を築いています。赤羽根城は太平洋に面した海岸近くに築かれており、ここでも小笠原氏と海との関係をうかがわせます。そして家康の「康」をもらい「康元」と改めます。
 広重、安元は、その後も家康の家臣として元亀元年(1570)の姉川の戦い、同三年の三方原の戦いに従軍しています。三方原の戦いは徳川氏の敗戦だったので安元の弟と孫の安広が戦死し、三男の安勝も歩行困難になる重傷を負うなど小笠原氏は大きな代償を払っています。
 広重は三方原の戦い後は子の信元に家督を譲り、天正十三年(1585)に病死しました。
 安元は、天正三年(1575)の長篠の戦いに参加していますが、天正十七年に八十歳で病死しました。
その後、家康の関東移封に伴い寺部城の小笠原信元は千葉県富津市に、欠城の小笠原氏は千葉県富津市と埼玉県狭山市に移っており、子孫は旗本になっています。信元はここでも船手の役をつとめています。
 小笠原氏は、関ケ原合戦では千賀氏とともに尾張の毛呂崎(南知多町)で戦い、敵の船を乗っ取るなどの活躍をしています。
 このように小笠原氏は家康の家臣として各地を転戦しますが、船手衆として海との関係も保ち続けました。
 ところで、世界遺産となった小笠原諸島を発見したとされる小笠原貞頼は『寛政重修諸家譜』によると寺部城主小笠原広重の娘婿です。貞頼は幡豆に住み、姉川の戦いや高天神の戦いに従軍しています。貞頼の事跡は他に傍証がないため疑問視されていますが、このように幡豆の小笠原氏が船手衆を勤めるなど海と密接に関係していることを考慮すると可能性も考えられます。


穴観音
欠城は、穴観音と呼ばれる古墳の西にありました。近くには民部坂も残っています。


太山寺
寺部城の北にあります。小笠原氏の祈願所でした。


小笠原氏の位牌
西尾市西幡豆町の安泰寺にある小笠原長重(安泰寺開基)と安次(安元の子)の位牌。もう一つは名古屋城築城の石切の関係者と言われています。安泰寺には小笠原氏の墓もあります。


寺部城跡と欠城跡

 寺部城は、寺部港からほど近い標高約三〇mの丘陵に築かれた山城です。
 浅野文庫諸国古城之図の寺部城絵図は麓に居館、背後の山に詰の城という典型的な山城を描いていますが、現在もその様子を見ることができます。本丸の北は土塁がありますが、南にはなく開放的で、居館を南に置き海を志向した縄張りとなっています。本丸の東は屈折した横堀がめぐり、戦国末期の改修が見られます。
 欠城は磯城とも呼ばれ、穴観音の西方、字貝吹付近にありましたが、現在は宅地となりその跡をとどめていません。屋敷城だったと推定されます。付近には市場地名や公民館もあり、古くからこの地が中心的な場所でした。
 このように寺部城と欠城は規模や構造に大きな差がみられます。これは寺部城が家康の家臣として小笠原広重の加増に伴い、整備拡張されたことによるものでしょう。小笠原安元は赤羽根城主でもあったため欠城は大きく改修されなかったのではないでしょうか。


愛知中世城郭研究会

石川 浩治