石川台嶺という名前を聞き、大浜騒動と結びつけられる人は少なくなっている。騒動の顛末を知っている人は、ほとんどいないかもしれない。しかし、三河の仏教者として、この人の名は永遠に刻まれねばならない。
大浜騒動(鷲塚騒動・菊間藩事件)は、百五十年前の明治四(一八七一)年三月に鷲塚(碧南市)の地で起こった、いわゆる宗教一揆である。台嶺は、天保十三(一八四二)年、現在の西尾市室町順成寺に生まれ、二十五歳のとき現在の安城市小川町蓮泉寺に婿入りした。青年期の台嶺の様子についての詳細は不明だが、後にサンスクリット学の権威となる南条文雄博士の『懐旧録』に少し出ている。幕末の東本願寺、高倉学寮の後輩であった南条が「その頃から革命気分の盛んな質があった」と記している。何かの問題が起こったときに「この人が総大将格になり」といった記述も見られる。台嶺は、もともと正義感の強いリーダー的気質を具えていたようである。
徳川幕府を倒して誕生した維新政府は、天皇中心の国家建設のため『日本書紀』以来の復古的神道を取り入れ、これを国の宗教として国民に宣布した。もともと日本人の宗教観は、神と仏が一体的関係にあり、神は本地である仏や菩薩の垂迹であると信じられていた(本地垂迹思想)。つまり、神は仏が姿を変えてこの世に現れたものであった。しかし、慶応四(一八六八)年三月、新政府は神仏分離令を発令した。これがもとで、神社と一体的になっていた仏堂や仏像・経巻などが破壊され、「廃仏毀釈」の嵐が吹き荒れることになる。
三河の地は、蓮如上人以来数百年、浄土真宗の盛んな地であり、おしなべて仏教信仰の篤い土地柄であった。著名な学匠も多数輩出しており、台嶺の兄楠潜龍もその一人であった。廃仏論をともなう神道化や、幕末の主要港開港によるキリスト教(当時「耶蘇教」)の進出などの対策や研究のため、明治元年、東本願寺では学寮に「護法場」を附設し、講者や所化(生徒)が研鑽した。講者には威力院義導や香山院龍温、闡彰院空覚らがおり、そのもとで台嶺や星川法沢(高取専修坊)も学んだ。こうして翌二年、約二百名といわれる会員をもって「三河護法会」が結成され、法沢は総監、台嶺は幹事となった。そして、本山の講者や地元三河の学匠らを招き講義を受け、内外の宗教・思想を学び、真宗の教えを確かなものとしていった。暮戸会所(現岡崎市暮戸教会)はその中核的拠点であった。
維新直後の行政は、大浜騒動の起こった明治四(一八七一)年七月まで藩制を遺し、藩主がそのまま知事であった。三河は小藩乱立で挙母・刈谷・西尾・岡崎諸藩はじめ、現在の碧南の多くを中心とした一万石を上総国菊間藩(旧沼津藩)が領有していた。菊間藩は、大浜に出張所を置いて支配した。明治三年に、少参事服部純が本藩より赴任し、新政府の政策に沿った諸改革に取り組んだ。村法改正・教育改革などとともに、宗教改革にも着手した。明治四年二月十五日、管内の僧侶を役所に集めて寺院統廃合を含む十一か条を下問した。このとき、浄土真宗の僧侶らは重大事案のため即答できないと日延べを申し出たが聞き入れられなかった。すでに藩の役職であった大浜西方寺(菊間藩の学校である「新民序」が置かれた)は百軒以下合併可、棚尾光輪寺(菊間藩の「教諭使」として神道的教導をした)は十軒以下合併可と返答していた。このことが台嶺ら三河護法会の耳に入り、事は重大化する。
明治四年三月二日、八日の二回、暮戸会所において激論が交わされた。刈谷藩でも寺院統廃合の動きがあるなど、他藩でも追随が見えていたため台嶺は善後策に苦慮する。そして八日の協議の後、反対意見もある中で若手を中心に三十余名が血誓をして、深夜、大浜・棚尾に向けて出発した。それは、菊間藩大浜出張所へ宗教的方針の変更を願い出るとともに、西方寺や光輪寺の真意を問いただすためでもあった。こうした動きの中で、法沢らの計らいで光輪寺の高木賢立は「詫状」を提出している。また自己の『教諭日誌』の中で仏教者・真宗僧侶として、教諭使の立場上神道的教諭をせざるを得ない葛藤を記している。もちろん台嶺は、それを知る由もなかった。
実行動に出た台嶺ら一行が桜井を越え、翌朝米津龍讃寺まで来たときには多数の民衆が加勢に押し寄せており、竹藪で竹槍を作る者もいた。台嶺は彼らに大浜行の目的を話し、粗暴な振舞のないように諭した。しかし、「大浜にヤソが出た」という風聞が人々を呼び寄せた。そして野銭堤を越え、雨も降り出した頃、大浜への入り口である鷲塚の村に入った。ここには四つの寺があり、自然に休憩する形となる。台嶺らはお東の池端蓮成寺に入ったが、愈々人も増えた。大浜の役人も急報を受け、五人が村の庄屋片山俊次郎宅に駆けつけたので、台嶺ら主要僧侶はここで談判した。しかし、国家の政策に沿った方針について、これらの役人が返答することもできず会談は膠着した。
時間の経過とともに人々はさらに増え、酒も持ち込まれていたようで、誰知らず蓮成寺の鐘を打ち鳴らした。それを合図にするかのように、人々は片山宅に投石、竹槍などで襲撃にかかった。役人は身の危険を感じ、抜刀して暗い中を大浜へ援軍要請に向かった。そのとき、ぬかるみに足を取られた一人の役人が転倒したため、人々は竹槍で突き殺してしまい、首級が蓮成寺に持ち込まれた。これを見た僧侶の一人が、この寺に迷惑がかかると思い処分するよう命じたため、首級を矢作川に流してしまったと言われている。暫くして、応援の砲声が鳴り響き、人々は徐々に減り、台嶺らも大浜行を断念して各自坊へ戻った。こうして騒動は大事件となってしまい、台嶺ら関係者は次々と捕縛され、やがて取り調べられることとなった。
容疑者として取り調べを受けたときの状況や尋問内容を、台嶺は克明に記録しており、『幽囚日誌』として今に伝わる。逮捕の三月十日から四月二十七日まで、まるで録音を起こしたように尋問と返答が記されている。特に前半は尋問の内容が多く、後半になると日常の様子も記される。朝のお勤め(読経)は欠かさず、親鸞聖人・蓮如上人の月命日にはより丁重に勤めている。拘留中なので、実家や知人からの差し入れも届き、仏教書も読んでいる。外の様子もかなり気にしており、自分や仲間の行く末を案じている。梅雨(旧暦)に入ると蚊や鼠、蚤などに悩まされている。
台嶺の取り調べの中心は、三月八日・九日の暮戸の集会から鷲塚での役人との会談内容、民衆の乱暴から役人の殺害に至るまでの経緯を幾度となく問われている。台嶺の決起の原点は「宗風にあるまじき」宗教的行為、すなわち神前祝詞や天拝日拝奨励など、これを教諭した同門僧侶への指弾であり、「不惜身命の赤心ヨリ事起り」と釈明している。浄土真宗の本義は「余の方へ心をふらず一心一向に」(「御文」五−一)念仏申し阿弥陀仏に救われること以外にはない。台嶺は「不惜身命」「護法」の言葉をたびたび口にしている。
やがて岡崎城において、政府派遣の渡辺民部大丞により裁判が進められ、十二月二十七日に判決が下り即日執行された。台嶺(二十九歳)は斬首、役人殺害の罪をかぶった榊原喜代七(三十七歳)は絞罪。関係僧侶の多くも投獄され、獄中死は五人、過酷な環境のためであった。後に西尾市葵町の台嶺の処刑地には顕彰碑が建立され、今も近所の方々が花を供える。殺害された役人藤岡薫は二十歳の前途ある青年であった。
浄土真宗の祖親鸞聖人は専修念仏禁令で越後に流罪となり、台嶺もまた身命を賭しても護るべき「教え」に生きた。加害・被害と単純化できない重い犠牲に、百五十年後の我々がどう向き合うか問われているように思われる。
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