伴五郎地蔵

 西尾市吉良町駮馬にある東条城跡から西方の田の中にがよく見えます。ここは永禄四年(1561)の戦いで徳川家康の家臣本多広孝らと戦い、富永伴五郎忠元が討ち死にした場所です。時に忠元二十五歳でした。今はその場所に伴五郎地蔵が建っています。地蔵の台座にはその謂れが書かれています。曰く「旧吉良東条の城主吉良義昭の家臣にして武功忠義の人なり」富永伴五郎忠元は徳川家康も認める武勇忠義の武将でした。


伴五郎地蔵
藤波畷古戦場にある地蔵。眼病に効果があるといわれています。隣には従者喜三郎の墓が並びます。


富永氏の系譜

 富永氏は、『西尾市史』によると幡豆郡司伴氏の後裔で設楽郡富永荘を領し、野田村(新城市)に館を持っていました。三代の資正が応仁二年(1468)に吉良義信に仕えてから、代々吉良氏の重臣でした。四代の正安は、吉良義尭に仕え、永正の頃(1504~20)に室城(西尾市室町)を築きました。
 五代の忠安は、吉良持広に仕えました。天文四年(1535)、守山崩れにより松平清康が横死すると、桜井松平信定が岡崎城を横領したために清康の子広忠は吉良持広の援助により伊勢に逃れました。吉良持広は清康の妹婿でした。広忠は、その後遠州掛塚を経て、天文五年九月に富永氏の居城である室城に入りました。
 しかし、松平信定に室城を攻められます。『阿部家夢物語』によると十月七日に城を自焼して今橋(豊橋市)へ退いたとあります。自焼とは城に自ら火をかけて退去することですが、このことを裏付けるように室城跡は地元の地誌に「煙焼ノ米麦粒今尚所々ニ存在ス」とあります。
 忠安は家督を息子の忠元に譲ってから富永庄にいたようですが、吉良氏滅亡後の永禄七年(1564)、鵜ケ池村古屋敷(西尾市鵜ケ池町)に隠居しました。翌年、家康が鷹狩りの途中に忠安を引見して、仕官を勧めましたが、これを断り、祖先や子の菩提を弔うために寺を建てることを願い出ました。この寺が妙満寺です。
 忠安の妻は松平長親の娘です。妙満寺蔵の「富永氏景図書」に忠安の妻の法名が「養寿院殿玉林良久大禅定尼」と記されています。養寿寺(西尾市下矢田町)に墓がある矢田姫の法名と同じであることから、矢田姫が忠安の妻であったことがわかりました(柳史朗「矢田姫を追う」)。吉良氏、富永氏共に松平氏と縁戚関係にあり、広忠が室城に入ったのもこういった縁が関係したのでしょう。
 忠安の最後には異説もあります。『岡崎領主古記』によると忠安は天文八年(1539)、荒川山の合戦で吉良持広に従い、荒川義広と戦い戦死したとされます。富永氏の菩提寺である大通寺の位牌にも同様なことが記されています。


富永氏の墓
西尾市吉良町寺嶋の大通院にある富永氏の墓。大通院は富永氏の菩提寺で富永氏三代の位牌もあります。


富永忠元の二つの戦い

 永禄三年(1560)桶狭間合戦で今川義元が戦死すると、徳川家康は、今川氏から自立を図ります。今川氏は西条城(西尾城)に牧野成貞を入れます。東条城には吉良義昭がいました。
 永禄四年四月には善明堤の戦いが起こります。『神武創業録』等によると吉良義昭が上野城(豊田市上郷町)を攻めると家康は深溝松平伊忠に救援に向かわせます。義昭はその隙をついて、中島城(岡崎市中島町)を攻めました。松平好景は深溝城より救援しますが、西尾市吉良町瀬戸の鎧ケ淵で伏兵に合い、敗走します。富永忠元に退路を絶たれ、善明堤(西尾市下永良町)で戦死しました。この戦いで松平好景とその弟四人など三十四人が戦死しました。
 ただ、この時義昭が上野城を攻めたことは疑問も残ります。上野城までは距離があり、別の合戦と混同している可能性があります。実際には吉良方の中島城をめぐる攻防の一環だったのではないでしょうか。
 その後、今川方の荒川義広が徳川氏に味方して西条城を攻めたため、牧野成貞は退去しました。東条城は次第に孤立していきました。
 家康は東条城の周囲に付城として津平砦(西尾市吉良町津平)、友国砦(同吉良町友国)、小牧砦(同吉良町小牧)、糟塚砦(同平原町)を築いて包囲を固めます。
 永禄四年九月に家康自らの出陣を見て忠元は、「このまま城を開いて渡すことは無念である。戦名を残したい」と城門を開いて討って出ます。戦場となった藤波畷は沼田の中の細い一本道です。忠元は奮戦しますが、遂に本多広孝の家臣に討たれました。広孝はその功により家康より感状を貰っています。
 この時の戦いで忠元の弟の徳玄と長縄城の大河内兵道も戦死しています。藤波畷とは反対の東条城の東側に徳玄塚と兵道塚という自然石があったので、広い範囲で戦いがあったことがわかります。
 『三河物語』はこの時の様子を半五郎は武辺之者なれば敵味方共に「半五郎打死之上ハ、落城程有間敷」といったとあります。忠元の戦死を知った吉良義昭は伴五郎が討ち死にしてはどうにもならないとして降伏しました。
 富永氏の子孫は尾張徳川家の家臣となっています(『士林泝洄』)。


藤波畷古戦場
東条城の西の細い畷で、現在は石碑が建ちます。伴五郎地蔵は県道318号線をこの石碑より南に150mほど行ったあたりです。


室城跡

 室城は、富永氏代々の居城で、林松寺の裏の標高約20mの城山にありました。
 広島市立中央図書館の浅野文庫「諸国古城之図」に室城の絵図が残されています。
 絵図には本丸に井戸が描かれています。この井戸はかなり埋まっていますが、現在も残っています。本丸は墓地となっていますが、周囲に土塁や堀切の一部が残っています。
 現在、神明社が建てられている場所は蔵屋敷と言われていました。神社の紋は三つ葉葵です。これは一時広忠が室城にいたため奉納したと言われています。
 室城は西尾市内の山城の中ではよく当時の様子をとどめているうちの一つです。一度訪ねてみてはいかがでしょうか。


室城絵図
広島市立中央図書館浅野文庫蔵諸国古城之図に収められています。北側の用水は堀とされています。城主広忠公なりと書かれています。(広島市立中央図書館浅野文庫蔵「諸国古城之図」より「室 三河幡豆」)


室城跡
中央のこんもりした山が城跡です。麓に見えるのが林松寺で居館と考えられます。右側の一段低い辺りに神明社が建ちます。


愛知中世城郭研究会

石川浩治