吉良氏・今川氏の祖足利長氏の嫡男を満氏といい、彼は三河最古の臨済宗寺院実相寺(西尾市上町)を創建した。このことが、この地域の臨済宗の起源であり、吉良氏の発展とともに三河地方の臨済宗の教線は拡大し、多くの臨済宗寺院が建立された。地域の臨済禅と鎌倉幕府御家人である吉良氏の歴史を振り返ってみたい。


満氏の出自

 満氏は父長氏の長男として生まれた。母の法名は本成大姉と伝わるが素性は不明である。妻は『尊卑分脈』によれば足利本宗家を継いだ泰氏の娘で、満氏の弟国氏の系統が今川氏として西尾市内の地名を名字としていく。
 満氏は「足利上総三郎」「上総三郎満氏」などと『吾妻鑑』にみえ、泰氏の長男家氏(斯波氏祖)らとともに幕府に出仕し、重責を担っている。また、満氏は建治元年(1275)頃越前国の守護職に補任されている。これは本宗家以外の足利一門では、鎌倉期唯一の守護経験者であり、吉良氏の家格の高さを物語る。

実相寺を創建した満氏


現在の実相寺全景 西尾市上町 伴野勝利撮影


 「東福開山聖一国師年譜」などによると満氏は、文永8年(1271)京都東福寺の円爾(のちの聖一国師)を開山として吉良氏菩提寺となる実相寺を創建した。円爾は実相寺開山として一日だけの入寺であり、実質の開山は円爾の弟子無外爾然(応通禅師)であった。なお、円爾は禅文化として、この地方に初めて茶をもたらしたといわれている。
 高僧円爾を招聘できたのは東福寺の檀越九条家が吉良荘の本所であったことと密接な関係があると思われるが、『今川記』によれば満氏は聖一国師の弟子となって実相寺を建て、長年参禅したので俗体にて袈裟を許され門弟の最一になったとしている。
 しかし、法名として実相寺開基の称号「実相寺殿」を号するのは、満氏の子貞義である(吉良氏の法名については表1参照)。これはなぜであろうか。「岡崎領主古記」によれば永禄3年(1560)5月5日、実相寺は織田信長の進攻で兵火にさらされ焼失したとされる。桶狭間の戦い(同年5月19日)の少し前にあたり、織田方が今川方の吉良領を攻めたものと思われる。それはさておき、実相寺はそれよりかなり以前の南北朝期にも戦火をうけたのではないか。建武3年(1336)4月、吉良荘は南朝勢の乱入により大打撃を蒙っている。このとき、実相寺も兵火にかかり伽藍を焼失したのではなかろうか。そして、この後実相寺を再建したのが貞義と推測する。なお、当初の実相寺は応通禅師の墓近くにある金石神社(西尾市上町)付近にあったという説や浄念塚(西尾市鶴城町)付近にあったという説がある。


表1 吉良氏の仮名、官途・受領名及び法名

表2 西尾市内の主な臨済宗(妙心寺派)寺院 *実相寺末寺


実相寺の規模


 開創当時の実相寺の規模は不明だが、伝承では大槎律寺(西尾市伊藤)は実相寺の旧観音堂で、貴布禰神社(西尾市伊藤町)付近に実相寺の大門があったという。実相寺の塔頭として知られる道興寺跡は現境内地の東方300メートル、龍門寺跡は同じく南へ400メートル、法光寺は同じく500メートルほど離れている。また、南東500メートルほどには積善寺という地名が残り実相寺塔頭積善寺があったことを示している。以上のごとく、往時の実相寺境内の広大さを窺うことができる。
 足利尊氏は、後醍醐天皇や戦没者の死を悼み諸国に安国寺・利生塔建立を指示し、実相寺も安国寺に定められ「実相安国禅寺」という称号をうけた。このことは、地域の臨済宗波及に繋がっていったのである。
 なお、実相寺をはじめ西尾市内の主な臨済宗寺院(表2参照)は当初東福寺派であったが、天文15年(1546)頃からの今川氏の三河進出にともない、今川義元の軍師太原崇孚雪斎禅師により妙心寺派に転じている。


開山聖一国師の碑 実相寺境内東側

応通禅師の墓 西尾市上町塔頭地内


霜月騒動と吉良氏


 霜月騒動とは弘安8年(1285)11月17日、第9代執権北条貞時の外戚で有力御家人安達泰盛と執権貞時の乳母の夫で御内人(北条得宗の家臣)の平頼綱が争い、泰盛とその一族及び与党が排除された政変である。霜月騒動の評価は諸説あるが、騒動後は北条得宗専制が強化された。
 霜月騒動で排除された者のなかには「足利上総三郎」がみえ、これを満氏とする説があるが、彼は騒動の前年、ときの執権北条時宗の死去と同時に出家しており、「足利上総入道」などといわれたはずである。騒動で排除された「足利上総三郎」は、満氏の嫡子であった「貞氏」であろう。満氏がいつ死去したかは不明だが、吉良荘では元弘元年(1331)、願成寺(西尾市巨海町)を満氏が創立したとの伝承がある。
 霜月騒動により吉良氏は一時没落したが、それは新たな時代を迎える序章であった。


西尾市史調査員

齋藤 俊幸