2019【春】号(№105)までに、矢作川の西側、かつての碧海郡矢作町内の7つの古墳群の紹介はさせていただいた。今回は、岡崎市東部地区にある古墳のうち(図1の4)、石室の特異さ(竪穴系横口式)と出土遺物等から、地味ではあるが、注目するべき経ヶ峰1号墳を紹介させていただきたい。古墳の築造年代は、№105より少しさかのぼる。今までに紹介した古墳をおおざっぱに並べると、於新造古墳(4世紀中頃か)、甲山1号墳、和志山古墳、宇頭大塚古墳(5世紀中葉頃か)と時代が下り、それに続く古墳と考えられている
位置
経ヶ峰古墳群は、東から西へ流れる乙川右岸の標高66・7mを測る独立丘の山頂および山腹に分布する3基の古墳からなる。地籍は丸山町字経ヶ峰。北方の谷を隔てた丘陵には亀山古墳群があり、東方の段丘上には神明宮1・2号墳がある。(図2)
経ヶ峰1号墳は、丘陵の山頂に造られている。(写真1)妙見閣 長徳寺の山門をくぐり、本堂の前の案内板の地図をよく見ると、墓地の横を少し妙見堂(写真1の赤い屋根)の方へ上り、左側の鐘楼の裏の奥に「山頂古墳」という文字が書かれている。(図3)
調査のようす
以前から円筒埴輪や形象埴輪が採集されていたが、昭和40年(1965)に埋葬施設の石室が盗掘にあってからは、墳頂の封土の流出が著しく、墳形も損なわれてきており、このままでは墳形や石室の構造が不明となることが心配となってきた。昭和52年に市史編さん事業がはじまり、この古墳もその調査計画の中に加えられることとなった。調査は昭和53年12月と翌54年3月の2回にわたって実施された。担当の斎藤嘉彦先生の思い出話では、年の瀬も押し迫った中、家族の方々の協力も得て発掘調査が開始されたとか。
外形および外部施設
墳丘は従来、円墳とされてきたが、調査の結果、丘陵稜線に沿って、前方部を北西に向けてつくられた帆立貝式(形)の前方後円墳であることが確認された。墳丘の規模は全長35m、後円部の直径27・5m、現存の高さ2.8m、前方部の長さ7.5m、幅10m、現存の高さ1.3m。後円部北東側と前方部は旧状をいくらかとどめているが、墳頂から後円部南半にかけて封土の流出が著しく、地山が現れて所々に岩盤も露出していたという。調査は後円部北東側とくびれ部、前方部にトレンチ(試掘溝)を設定して実施。結果、墳丘は尾根の高まりを利用してその一部を削り、一部に盛土をして築かれたものと考えられた。(写真2)
墳丘には人頭大前後の河原石が葺石として利用されており、とくに前方部上端の葺石は立ち上がり、墳丘中段に段築が確認された。断面U字形の浅い溝の周溝上端幅1.5~2m、深さ50㎝。急斜面をなすくびれ部と前方部では確認されず、後円部のみにめぐらされていた。(図4)
ほかの外部施設には円筒埴輪(図5の24、25)と形象埴輪とがある。原位置に立っていた円筒埴輪は、北東側くびれ部13個、南西側くびれ部3個で、葺石列の末端に並べられていた。そのうち、北西側くびれ部の南西端の1個は上部が花のように広がる朝顔形埴輪(図5の23)。いずれも地山を掘りくぼめて据えられ、さらに安定させるため内部に葺石と同じ大きさの礫を入れていた。形象埴輪は後円部とくびれ部から発見。原位置にあったのは、北東側くびれ部の円筒埴輪列の上段に据えられていた草摺付の短甲形埴輪(図5の26)と、南西側くびれ部の円筒埴輪列の下段に据えられていた家形埴輪(図6の27)と囲形埴輪(図6の28)。家形と囲形埴輪の上部は押しつぶされていたが、家形埴輪は平面形が鉤の手形となる囲形埴輪の一方に寄せて据えられていた。家形埴輪には出入口と、円窓が付けられている。囲形埴輪の塀と思われる上部には、外からの侵入を阻むように鋸状のギザギザが造られている。
家形埴輪を囲む状態で囲形埴輪が出土したのは当時珍しく、斎藤先生は奈良県立橿原考古学研究所まで、自家用車でこの遺物を運び、検討会を開いていただいたそうである。
また、両くびれ部からは土師器の高坏と須恵器の蓋坏、高坏、はそう、器台が発見された。何れも埴輪とともに墳丘に供献されたものであろう。
※この記事は2019年10月01日時点の情報を元にしています。現在とは内容が異なる場合がございます。