芳春院妙西尼像【専福寺所蔵】画像提供:岡崎市美術博物館より

芳春院妙西尼像【専福寺所蔵】画像提供:岡崎市美術博物館より


戦国時代以前の女性は、有名人の親や妻であっても俗名の判る場合は希であり、多くは未亡人となり仏門に入ってからの名前で伝わる。今回紹介する芳春院(妙西尼・妙春尼)も俗名は不明で、夫の石川清兼(安芸守忠成)にちなみ「安芸後室」、または息男の日向守家成にちなみ「日向守母方」などと称されている。

芳春院の生家は水野家で、徳川家康の生母「於大」と姉妹である。系図により異なるが、一般に於大の妹といわれてきたので家康の叔母ということにしておきたい。於大は後に坂部城主久松俊勝に再嫁するため、家康はこの叔母に育てられたといわれている。水野家は松平・徳川に仕えることとなる名家である。宗家を継承した甥の勝成は、刈谷城主となり初代刈谷藩主を経て、備後福山藩十万石初代藩主となる。

ここで芳春院を取り上げるのは、この女性こそ、永禄六・七年(一五六三・四)の三河一向一揆で家康に敗れ瓦解しかけた三河の本願寺門徒団を再結束させた立役者であったからである。一揆後、家康は本願寺の国内禁教、三箇寺(勝鬘寺・本證寺・上宮寺)など大坊主の国外追放と破却などを断行した。しかし、その二十年後の天正十一年(一五八三)十二月三十日付で家康より赦免状が下された。宛先は「ひうかのかみはゝかた」。つまり、芳春院に対し三河門徒の宗教活動の許可を通知したのである。この赦免状の原本は、現在西本願寺に所蔵されている(「本願寺門徒の事、この度、赦免せしむる上は、分国中前々より在り来たる道場、相違あるべからず、しからばこの旨申越さるべく候、仍如件、(朱印)」適宜漢字に改めた)。これを見るだけでも、彼女が三河門徒の代表格であることは一目瞭然である。

また、彼女には本願寺門主との親交もあったことが知られる文書が佐々木上宮寺に伝わる。これは、本願寺の時の門主教如上人に送り届けられた品々に対する礼状である。それによると、「たかのかん一、かも二、このわたおけ一、しろうおのおり五」などの品々が記されている。そして、「いつれも〳〵めつらしき御さかなとも、はる〳〵送給候事、いつもと申候なから、御心さしのほと、申つくしかたく御入候」とある。上方ではなかなか見ることもない珍味の魚介類をいつも送り届けられることに感謝している。この書状は十二月十五日付で、お歳暮の品とも考えられるが、芳春院は折々に本願寺の門主に対し、三河の海の珍物を届けていたようである。

これらは、単に地位の高さからの交流ではなく、深く浄土真宗の信仰に根ざしたものと考えられる。芳春院の夫石川忠成は、天文十八年(一五四九)四月七日付の本證寺武士門徒連判状の筆頭に名を見る人物である。これは、百余名の本證寺武士門徒が後継の「あい松」を取り持つことを誓約したもので、石川忠成は本證寺門徒の代表的存在であった。その妻の芳春院も筋金入りの真宗信仰者であればこそ、夫亡き後の三河門徒団を統率するトップリーダーとして君臨することができたのであろう。


本證寺武士門徒連判状【本證寺所蔵】 画像提供:安城市歴史博物館より

本證寺武士門徒連判状【本證寺所蔵】 画像提供:安城市歴史博物館より

最晩年の姿を描いたと思われる芳春院肖像画が、岡崎市専福寺に伝来する。在家信者としては珍しく完全な法体である。いわゆる尼僧の姿である。おそらく夫亡き後、こうした法体で過ごしたのであろう。慶長三年(一五九八)八十四歳で没している。奇しくもこの年に、天下人豊臣秀吉も没する。それによって、政権のバランスが大きく揺れ動くことになり、二年後の関ヶ原の合戦を境に徳川家康が政権の座につくことになる。

時同じくして、本願寺も教如上人と准如上人の兄弟二人の門主が擁立されており、微妙な分裂状態にあった。そして、三河においても芳春院没後、大半が教如上人(後の東本願寺)支持となるが、生存中はそうした分裂の動きに一定の歯止めをかけていたのではないだろうか。

天正十一年末の家康による赦免後も、大坊を中心に三河門徒団は揺れていたが、その中にあって芳春院は大きな存在感を示した。現代にあっても女性リーダーが出難い土壌があるのに、戦国乱世の時代に女性リーダーとして、力強い信仰者として活躍した注目すべき人物である。


芳春院のお墓を伝える本宗寺

芳春院のお墓を伝える本宗寺


本宗寺 山門

本宗寺 山門


本宗寺説明板

本宗寺説明板


宗大谷派蓮成寺住職 同朋大学仏教文化研究所客員所員

青木 馨