「誠々歎ヶ敷存候(まことにまことに、なげかわしくぞんじそうろう)」
永禄五年(1562)六月、鵜殿氏と懇意の僧は、この年二月の松平元康(後の家康、以後は家康と記す)による上ノ郷城攻略と鵜殿氏当主の落命を知り、遠路から当地の菩提寺長応寺に心からのお見舞い状を送りました
西郡の上ノ郷城が落城して鵜殿藤太郎殿(長照)が亡くなられ、一族の方々が迷われていることを知りました。非常に非常に悲しい事でございます。あわせて、門中寺僧の痛手も限りありません。しかし、世の移ろいはその地ばかりではありませんので、落ちつかれましたら旧跡のお守りにお努め下さい (「日扇書状」長存寺文書)。
鵜殿氏が厚く敬った僧侶の一人日扇の書状は、長照の討死を大変無念に思うとともに、仏門の行く末をも案じています。
上ノ郷鵜殿氏三代長持・四代長照
西郡上ノ郷(蒲郡市神ノ郷町)を本拠とした上ノ郷鵜殿氏は、鵜殿氏の惣領として西郡全域を治めていました。鵜殿氏は長照の父三代長持の時、十五世紀の中頃に全盛期を迎えました。 長持は長応寺に法華経を寄進したり、縁の深い鷲津(湖西市)本興寺に多くの奉加をするなど仏教を篤く敬いました。それと同時に長持の妻は今川義元の妹であり、天文年間(1532~55)以後の三河の今川領国化に伴ってその存在感を増していったようです。長持は一族の結束を図り、「西郡の平和」を実現しました。(『蒲郡市史』本文編1) 天文13年(1544)11月、連歌師宗牧は深溝(幸田町)で連歌会を持った長持と連立って西郡に入りました。途中まで、長男長照が迎えに来ました。宗牧は上ノ郷の様子を「世にかはらぬ年をへて繁昌」と述べていることはよく知られています。宗牧は西郡で鵜殿一族と「千句連歌」を行いました。23日間滞在の後、宗牧は長照などと大塚まで同道し牛久保(豊川市)方面に向かいました。(「東国紀行」) 長持は弘治三年(1557)九月に亡くなりました。跡を継いだ長照は、当然父長持の意思を受け止めていたと思われます。しかし、そのわずか三年後の永禄三年(1560)五月、鵜殿氏の後援者であった今川義元が桶狭間で織田信長によって討ち取られます。これ以後、長照の立場は微妙で危ういものになって行ったのでしょう。
鵜殿長照と一族
永禄五年の上ノ郷合戦に至る二年間の鵜殿一族の様子がよく分かる良質の史料は、知られていません。しかし、鵜殿氏の一族(下ノ郷鵜殿氏)で僧となった日翁が寛永年間(1624~43)に書き残した記録である「鵜殿由緒書」(長存寺文書)には、次のようにあります。
長持が死んでから、藤太郎(長照)は行いが悪くなった。一族の皆は(長照を)避けるようになり、すぐに下ノ郷家は家康公の御旗下に属した。また、長照の叔父に当たる平蔵殿は、家を出て今川家に直参することにした
一族の内から家康に従う者や、後援者であった今川氏との齟齬が現れ始めている様子が見て取れます。長照の義理の弟に当たる竹谷松平氏の清善は、桶狭間合戦すなわち家康の自立以後、家康に属して西郡に盛んに攻め込んで来ました。長照はよく戦いましたが、永禄五年に至る間、次第に孤立無援で家康の大軍を迎え撃つ立場に追い込まれて行ったようです。
上ノ郷合戦の裏表
永禄五年二月、上ノ郷城は名取山の家康と松井忠次・久松俊勝の軍勢に攻撃され落城しました。家康が長照を討取った伴与七郎に与えた感状に次のようにあります(元康感状写)。
藤太郎(長照)からは年来挨拶もない、心の霧を散らしていよいよめでたいものだ
一方、長照関係者の嘆きは先ほど紹介したとおりです。
さて、この戦いに巻き込まれ寺院に逃げ込んだ女性や子どもら住民のあり様が、垣間見られます。家康は松井忠次に住民にも厳しい詮議を命じています(松井忠次宛元康判物)。住民を含む上ノ郷一帯は、戦いのために「繁昌」の里は一変し荒廃したようです。しかし、この後、下ノ郷に繁栄が移り、永禄九年(1566)には郷市が見られ鍛冶・番匠(大工のこと)・紺屋・酒作りなどの職人たちがいました(『鵜殿長龍壁書』長存寺文書)。西郡は合戦の痛手を乗り越え再生したのです。
上ノ郷城について
上ノ郷城は、現在も土塁や堀など比較的規模の大きな遺構を残しています。蒲郡市は2007年度から発掘調査を行い、目覚しい成果を挙げました。主郭には建物や石段が見出され、周囲には土塁を伴う薬研堀が発見されました。(『調査報告書』)適切な整備と今後の研究が期待されています。
※この記事は2012年07月10日時点の情報を元にしています。現在とは内容が異なる場合がございます。