大樹寺山門

 松平氏三代信光のあとを継いで四代目となるのが親忠である。親忠は信光の三男で安城の地に分立した庶家であったが、信光嫡男親長の岩津松平家が十六世紀以降勢力を失ったために惣領家としての地位を得る。そのために松平氏八代のうち、四代目を安城松平家初代の親忠にあてる。

大樹寺開創  


大樹寺開山勢誉

 親忠の功績でまず挙げられるのが岡崎市鴨田町にある大樹寺の開創である。親忠は安城城を分与される前に、大樹寺の位置する鴨田やその近辺に所領を与えられており、大樹寺あたりに居館を構えていたとされる。大樹寺は親忠の菩提寺として建立されたと考えられる。大樹寺の創建は寺伝によると、文明七年(1475)であるので、安城分与はそれ以降になる。    応仁元年(1467)井田野合戦での戦死者を弔う首塚、千人塚の亡霊が、文明七年に騒ぎ出したので、それを鎮めるために親忠は念仏堂を建て、さらに開山に勢誉愚底を迎えて大樹寺を創建したという。親忠は明応六年(1497)7月25日、大樹寺あたりの鴨田などに所在する林を大樹寺に寄進している。寄進状によると、この林は親忠が20年あまり育ててきたものであると述べている。『安城市史』では20年前は文明九年にあたり、おそらくこのころに父信光から鴨田に所領を与えられ、併せて林を与えられたものと推定している。


安城分立  

 『三河物語』によると、松平三代信光は安城城を奪取して同城を三男の親忠へ譲ったという。安城城は岩津城から南西方向へ約9.5キロメートルの地点に位置する。岩津とは矢作川を隔てて、碧海郡にある。親忠は先述したように、当初は大樹寺のあたりに所領を与えられ、居館を構えていたと考えられる。大樹寺の地は岩津城と岡崎城の間に位置し、軍事的拠点でもあったのであろう。文明七年の大樹寺開創のあと、信光の安城城入手により旧領を保持したまま安城城に本拠を移したものとみられる。その時期は文明八年の三河動乱後とみられている。

井田野合戦  

 勢力を拡大しつつあった松平氏に対して、加茂郡挙母の中条氏が、碧海郡上野の阿部氏、加茂郡寺部の鈴木氏、伊保の三宅氏、八草の那須氏の軍勢とともに、明応二年(1493)松平領内に入った。親忠は大樹寺南方の井田野でこれを迎え撃った。この合戦は親忠の生涯で大きな事件であったとみられるが、同時代史料がなく、『三河物語』にも記述はない。これを記すのは江戸時代に成立した「三州八代記古伝集」のみである。同書によると、中条氏らの四千の人数に対して、親忠は二千の人数でこれを撃退したという。三後彦次郎の勇者の働き、岩津松平氏の加勢もあり、勝利した親忠は一族内での地位を高めることになったという。なお、中条氏らが来襲した原因については幕府政治の動向と関連付ける説があるが、断定は難しい。


親忠寄進状


親忠の岡崎在城、隠棲説  

 「三州八代記古伝集」によると、岡崎の松平弾正左衛門病死により息子が幼少のために親忠は頼まれて子の長忠を安城城に残し置き、自らは岡崎城に入り、万端取り仕切ったという。明応二年の井田野合戦でも、中条氏などを撃退する兵を出したのは岡崎城の親忠と記す。また、幕府記録の『朝野旧聞裒藁』では、「岡崎古記」を引きながら、明応五年頃、親忠は長忠に安城城を譲り、岡崎城に隠棲したという。また、「三州八代記古伝集」は岡崎菅生満性寺に寺領を寄附したと記し、実際、満性寺には明応五年の親忠名による寺領寄附状が現存する。寺伝もそのように伝える。しかし、新行紀一氏が指摘するように、この親忠は四代目の親忠でなく、花押の形から岡崎松平の親貞である。なぜ、親貞が親忠と名乗ったのか不明であるが、先述のような四代目親忠の岡崎隠棲説と関係していればおもしろい点である。

親忠の遺言状  

 親忠は明応五年(1496)、子の長忠に安城を譲り、岡崎に移ったとされるが、親忠が隠居のために移ったのは大樹寺内の寮舎大梅軒とされている。親忠は文亀元年(1501)八月十日死去する。通説の永享10年生まれとすると、享年64である。親忠は、亡くなる前の五月二十五日に遺言状を残している。自分の死を覚悟して葬儀のことなどを詳細にしるしている。自分が往生したら大樹寺に関係者を召し寄せることなど、同寺での弔いの儀式等を十四条にまとめている。この遺言状は大樹寺の住職である勢誉愚底様の御目にかけ、自分の子である道閲(松平五代長忠)が披見し、信光明寺住職の超誉存牛など、子にも見せるべきことを端裏書に記している。大樹寺のことを子供たちが大切にすることが明記されているが、その遺言どおり大樹寺は松平一族により以後手厚い庇護を受けることになる。親忠の死後、初七日にあたる八月十六日に松平一族連判状が作成される。松平の一族が連署して、大樹寺は親忠の位牌所であるので如何様のことがあっても大樹寺を警護することを誓っている。この一族連判状は、松平氏をめぐる三河の緊迫した政治情勢を反映したものともされる。永正年間(1504~1521)には駿河今川氏が三河に侵入し、松平氏はその脅威にさらされることになる。


岡崎市美術博物館 副館長

堀江 登志実