後円部の北側より墳頂部を見上げる


図1 岡崎のおもな古墳の分布図

 岡崎市中央部、愛宕山丘陵の南端の甲山とよばれる独立丘陵に甲山1号墳がある(六供町字甲越)。「丘陵の高まりをうまく利用して造営された直径約60m、高さ約8mと推定できる大型の円墳である。標高64・5mという立地も考え合わせると、つくられた当時は埴輪を二重に巡らして堂々たる偉容を示し、まさに権力者の墓にふさわしい姿を人びとに誇示していたことだろう。」と『新編岡崎市史1』にある。(図1の5)


 『市史16』には、甲山古墳群として、1号墳南方約25mに立地する円墳を2号墳(直径約14m、高さ約1m)とする。2号墳の墳丘の東側から採集された円筒埴輪片は1号墳と同じ形態であるという。その東方約10m隔てて2号墳とほぼ同規模の円墳3号墳があったが、甲山公園造成時に削平された。1号墳の東に、円墳で南に開口する横穴式石室が存在したと伝えられる三ツ岩古墳があったが、滅失したとある。(図2)
 〝甲山〟〝三ツ岩〟という地名のいわれについては、『古事記』にヤマトタケル東征の際、矢作川での矢竹の伝説の後、ヤマトタケルの夢に3人の翁が現れた。東征を守護するから、東征後甲首を山神に供えよと飛び去り、1里ほど東の山で3つの大石となる夢をヤマトタケルは見た。東征後、守護してもらったお礼に3つの大岩に敵の甲首を埋めた、または八幡太郎義家の兜を埋めたという伝説が、江戸時代には伝えられており、古墳と知られていた。(図3)を見ると、明日香の石舞台古墳のミニチュアのような姿を連想してしまう。


図2 甲山古墳群位置図(1:5000)『新編 岡崎市史 史料考古下16』より

図3 三ッ岩『岡崎市史第8巻』より


 一方、昭和20(1945)年7月20日未明の岡崎空襲では、市内の死者は約280人。岡崎と数時間違いで被害を受けた福井市(1576人)の犠牲者数に比べると少ないのは、市の中心部には丘陵を利用した横穴の公共防空壕が多く掘られたからという。その内のひとつが、甲山八幡宮の防空壕である。甲山八幡宮は、この1号墳のすぐ南に位置する。


図4 古い型式の円筒埴輪

 甲山1号墳について『市史』の記述を要約すると、「第2次世界大戦末期の昭和19年(1944)、墳頂に防空監視所が設置され、同時に墳丘中段の南側と東側の2方向から墳頂部に向けて防空壕が掘削された際、現場に居合わせた故鈴木文吉氏のメモに、壕内から運び出された土から多量の木炭と木炭に混じって鉄刀が出土したと記録されている。この古墳は木棺を粘土ではなく木炭で覆ったもので4世紀から5世紀初頭の古墳にみられる埋葬施設である。出土した鉄刀は旧図書館に保管されていたが、残念なことに戦災で焼失してしまった」「確認できる遺物は、円筒埴輪のみであり、直径40㎝以上の大型品も含まれ黒斑がある上に、凸帯は高く方形の透し孔があり、上部の開きや透し孔の形は初期の円筒埴輪から受け継いでいるらしい。これらと高い凸帯は、この地方の5世紀前葉までの古い円筒埴輪に共通する特徴」としてみどり№96で紹介した於新造古墳の円筒埴輪と並べて掲載。(図4)

 「1号墳は4世紀末から5世紀初頭(前期末~中期初め)の古墳。前方後円墳の出現に先駆けて造営された在地勢力の首長墓であったかもしれず、そうなると矢作川流域で最初に出現した古墳である可能性も考えられる。この南の2号墳・3号墳は1号墳の陪塚と思われる」と続く。甲山1号墳は、発掘調査は行なわれていないが、拳大の円礫で葺石が葺かれ、墳丘中段と裾部付近から円筒埴輪が採集されている。約1600年前の貴重な大円墳として、昭和47年(1972)岡崎市の指定史跡となった。

 岡崎市美術博物館平成21年(2009)『おかざきの考古学~身近かな遺跡をたずねてみよう~』では、「甲山1号墳 古い地図から再検討三河最大の前方後円墳か」とあり、昭和2年(1927)地形図(図5)と、最近の現地踏査の結果、再び前方後円墳説が浮上していると(図6)が示された。『市史』で、円墳の2号墳とされた辺りを南南西に向いた前方部と見れば、全長120m級の三河で最大の前方後円墳に復元されるという。


図5 昭和2年の仮称岡崎市地図形にみる甲山1号墳『三河考古20号』より

図6 甲山1号墳墳丘復元案 『三河考古20号』より


 昨年(平成28)発行の『愛知県史 通史編1』では、再検討を要する前期古墳のひとつとして「前方後円墳とする意見が定着しつつある」と紹介されている。
 岡崎市民会館を右に見て、甲山寺の北の細い道を西に入り、甲山八幡宮手前の急な道を上ると墓地。左にはすべり台など。そこは滅失した3号墳跡らしい。誘うように見える階段を上った平坦地が1号墳後円部の墳頂部。西側は崖になって真下に記念寺の屋根。北、東は木の間隠れに墓地。この下には、木炭槨に被葬者が眠って居られたかと考え、帰り道は西よりの細い階段を下ると、民家の前の細い道路。崖の南を東に歩くと、右に畑の東と南が高まりになっている地点に着く。多分この地が2号墳。うんと想像を膨らますと、北の後円部からかなり下がった前方部ではないか?南端には、甲山八幡宮の本殿と、防空壕がありそうな崖が樹間に。北側の崖が抉られた様になり、道が広がっている所もまた、戦時中の防空壕跡か。東側の墓地から見上げると、多分前方後円墳の後円部の中段にあたると思われる所にも墓石があり、その奥にも防空壕があったかも?近くの人家から少し下がった辺りに三ツ岩古墳があったのかも?と妄想は、1600年前と70数年前を駆けめぐる。
 不審者と思われないようにして、この伝説と不思議にあふれた甲山1号墳周辺を歩いたり、矢作川堤防上から、ビルの間から見える小高い丘上の南北120mにおよぶ前方後円墳の姿を思い描いたら、古墳時代前期後葉、西三河に君臨した権力者の姿が浮かんでくるかもしれない。


岡崎市文化財保護審議会委員

山田伸子