吉良満貞が造立した釈迦三尊像 県指定文化財 実相寺蔵


霜月騒動後の情勢


 弘安8年(1285)11月17日に勃発した霜月騒動により吉良氏(※参照)は一時没落した。しかし、それは打倒北条氏を目指した新たな時代の序章であった。
 元弘3年/正慶2年(1333)4月、後醍醐天皇方討伐に鎌倉を出立した足利高氏(のち尊氏)は三河の八橋で軍議を開き鎌倉幕府離反を決断する。今川了俊が著した『難太平記』によれば、まず吉良貞義に相談し支持を得た後、一門・被官にもそのことを諮ったとされる。この謀反は一門の重鎮吉良氏の賛同なしにはできなかったのである。翌月足利軍は京都六波羅探題を攻撃し、幕府方を駆逐する。関東では、新田義貞に続き足利千寿王(のちの義詮)が挙兵、5月22日には北条高時以下一門が自害し、幕府が滅亡した。
 その後、後醍醐天皇による建武の新政が開始されたが、足利尊氏の離脱により瓦解する。後醍醐天皇方との戦闘のなか、建武2年(1335)12月、尊氏は箱根竹下の戦いで新田義貞を破り西上するが、翌建武3年2月、摂津打出浜などで楠正成らの軍勢に敗れ、吉良貞義らと九州に逃れることになる。だが予想に反して、多くの武将たちが尊氏に馳せ参じた。彼らは霜月騒動の際、元寇で逼迫する自分たちを正当に処遇しようとして、北条得宗専制派に排除された武士の想いを忘れていなかったのだ。軍勢を立て直した尊氏軍は建武3年4月、九州を発ち翌5月、摂津湊川で楠正成・新田義貞を破り入京、11月には17か条の法令建武式目を定め実質的に新しい政権が誕生した。かくして、霜月騒動は室町幕府へと繋がっていったのである。
 後醍醐天皇が起こした南朝との戦いを優勢に進め、幕府の支配体制は安定するかにみえたが、やがて足利尊氏の執事高師直と尊氏の弟足利直義の関係が悪化し、観応の擾乱とよばれる内訌が起こる。終始直義に従い、行動を共にした最も有力な武将が吉良満貞である。

※実際に足利長氏の系統が足利から吉良に名乗りを変えるのは、足利尊氏が征夷大将軍に補任された暦応元年(1338)から康永2年(1343)の間であるが、煩雑を避けるため「吉良」に統一する。


満貞の出自


 満貞は父吉良満義の長男として生まれ、弟に一色有義、東条吉良氏の祖吉良義貴らがいる。母は不明で、正室は『尊卑分脈』によれば渋川義季の娘、すなわち室町幕府第2代将軍足利義詮の正室渋川幸子の姉妹である。また、満貞の娘は、三管領筆頭といわれた斯波氏の最盛期を築いた斯波義将に嫁し、嫡男義重(のち義教)を生んでいる。
 元服後上総三郎と称し、官途は足利尊氏と同じく初め治部大輔に任官し、極官は「斯波家譜」によれば尊氏が建武政権で任じられた左兵衛督である。至徳元年(1384)に死去しているが、西尾市教育委員会が行った悉皆調査によれば生年を嘉暦元年(1326)と推測しており、これに従えば享年は59である。

天龍寺供養と吉良氏


 足利尊氏は後醍醐天皇の霊を弔うため天龍寺を建立した。その落慶供養は天皇の七回忌である康永4年(1345)に行われたが、その際大規模な軍事パレードを挙行した。そして随兵で最も権威のある先陣六番左を吉良満貞が、後陣一番右を斯波氏が供奉しており、吉良氏の家格の高さがうかがえる(表1参照)。


表1 康永4年(1345)、天龍寺供養における随兵(谷口雄太氏作成)


観応の擾乱と東条吉良氏の分立


 満貞の父満義は、足利直義の妻が男子を出産した際には、二条京極の邸宅を産所として提供し、また直義の命で仙洞御所(退位した天皇の邸宅)の警固を務めるなど、終始直義派かにみえた。しかし、観応の擾乱では、貞和5年(1349)に高師直が戦いを優位に進め、直義は引退に追い込まれるが、観応元年(1350)になると直義が巻き返す。このとき満貞は直義に従い、行動を共にするが、満義は自邸を尊氏の陣所に提供するなど尊氏と師直の側にいた。満義は死去する延文元年(1356)まで、尊氏(北朝)に従っていたのである。
 直義は観応3年(1352)2月26日、鎌倉で死去するが、その後も満貞は南朝に属して尊氏と敵対した。そして、南朝から左馬頭という名誉ある官途に任じられる。左馬頭とは源氏の棟梁であり関東の支配者、そして将軍に成るものの称号であった。いかに南朝が満貞に期待を寄せたかがうかがえる。
 このとき、南朝に従属する満貞を見限り、満貞の弟義貴を擁立して新たな一家を起こしたのが東条吉良氏である。おそらく、この構想は満義在世時よりあったことであろう。
 満貞は尊氏死後、延文5年(1360)ころ幕府(北朝)に帰順し、父満義七回忌である貞治元年(1362)には実相寺(吉良氏菩提寺・西尾市上町)に釈迦三尊像を造立する。これは、満貞こそが吉良氏の惣領であるとする高らかな宣言であった。
 西尾市満全町の曹洞宗康全寺は院号を満貞院といい、元は吉良山満全寺という満貞の娘が開基に関わった寺院である。


現在の康全寺全景 西尾市満全町 伴野勝利撮影


西尾市史調査員

齋藤 俊幸