図1の7 岡崎のおもな古墳の分布図 

矢作川の西側、かつての碧海郡矢作町(図1の7)内の7つの古墳群中最南部のⅦ宮地古墳、その北西部のいわゆる宇頭台地上のⅥ和志山支群中の前方後円墳和志山古墳と庄屋塚古墳については、№101で述べた。その北側にあるⅤ宇頭南部支群の円墳の半分は、中部電力岡崎変電所や、名鉄名古屋本線の建設で滅失。円墳の後久1・2号墳は名鉄名古屋本線沿いの神明社境内地に現存する。


図2 後久1・2号古墳、宇頭大塚古墳、荒子古墳、北裏古墳

 名鉄線路北側の宇頭北町および安城市柿碕町は、『和名抄』の鷲取郷と推定される地域である。現在、宇頭北町のⅣ和志取支群(宇頭北部古墳群)には3基の古墳が現存している。(図2)その内最大の宇頭大塚古墳は、国道1号線を矢作町の低地から西に少し上った、中位段丘上東縁に立地する。現在、薬王寺の境内となっており、別名「薬王寺古墳」とも呼ばれる。明治45年(1912)、薬師堂の雨だれ落ちを造ろうとした際に、偶然、石室の一部に当たったため、東京帝国大学教授黒板勝美氏によって発掘調査が行われたとのこと。
 前方部を南西に向けた前方後円墳。しかし、前方部は江戸時代初期の東海道(現在の国道1号線)開設の際に、東西は民家の建築により削られ、後円部には本堂が建てられているため、墳形はかなり崩れている。比較的よく原形を残している後円部北側には周濠の跡もあったが、宇頭土地区画整理事業により、削り取られた。(写真1)


写真1


 後年の測量によると、後円部は本堂等の建設で広さは増し、高さは減っている。前方部については、国道1号線の北側あたりが、周濠との境と考えられている。後円部の直径約30m、前方部の長さ約30mで、周濠も含めると全長70mと推測されている。(図3)
 現在の封土は、杓文字の柄を短くした様な形になっている。封土の大部分は現存しているが、原形を残している部分が甚だ少ない上に、埴輪等も発見されていないので、時代等は推測し難いが外観だけから推察される編年は、古墳時代の中期中葉に属するものである。


写真2 宇頭大塚古墳出土乳文鏡

 薬王寺々伝によれば、元和2年(1616)4月、当古墳より石像と鏡とを発掘したという。その石像は豊阿弥長者の念持仏で、和銅年間(708〜714)笠取の地より出土したものといい、薬師として祀っている。古墳関係の遺物ではなく、和銅6癸丑(713年)3月6日の銘がある豊阿弥長者の位牌と、何らかの関係がありそうで、恐らく元和以後のものであろう。
 薬王寺の寺宝として保存されているこの古墳出土と伝えられている遺物の中で、最も見るべきものは鏡である。記録によれば、土器、土製勾玉、鉄刀、埴輪片等と一緒に出土したとか。しかし、現在確認できる遺物は、薬王寺の寺宝として保存され元和2年に、本古墳より見つかったと伝えられている乳文鏡1面のみである。(写真2)


写真3

 鏡縁の3分の2を欠く青銅製の仿製鏡(中国鏡を模倣した国内製の鏡)である。鏡面径8.6㎝、背面径8.4㎝、縁の厚み2.5㎜、鈕(つまみ)の高さ7㎜、面反り0.6㎜を測る。鏡背の文様は、円鈕に細線による一圏をめぐらし、内区は一列に乳を配しているが、現存部に9個、欠失部を復元すると10個となる。各乳は細線でU字形に囲まれ、その開いた方の中央に細線1条が加えられている。その外側に素文帯をはさんで複合鋸歯文帯をおき、外行鋸歯文帯を経て幅広い素縁の平縁で終わる。この種の形式の鏡は中期中葉以後の古墳より出土する場合が多く、およそ5世紀頃のものと考えられる。
 明治時代、埴輪や副葬品の破片等出土の際、石槨(石室又は組合わ式石棺であったかもしれない)の底部には、拳大の朱に染まった敷石が一面にしいてあったといい、天井石(長さ1.8m、巾1.2m、厚さ15~20㎝の扁平な片麻岩)は、今も庭石として用いられている。この石材は宝飯郡(現在豊川市)の赤坂付近から運搬したものと考えられる。20㎞以上離れているから、普通の地方豪族ではなく、国造級の工事と思われる。


写真4

 南方の和志山古墳とは規模、形式共に類似している。一方を五十狭城入彦皇子の墓とすると、その孫辺りに比定できるか。この宇頭大塚古墳は古の鷲取郷の主墳で、付近には和志取神社もあり、御立の地名も残り、その居館の位置も想像される。№101の西本郷の和志山古墳は谷部郷の主墳で、付近には瀬部(現在和志取)神社もあり、ともに五十狭城入皇子の一族の陵墓ということになる。
 かつて、宇頭町地内の御立の地名を抹殺し西本郷地内に設け、瀬部神社を和志取神社と改称して、陵墓伝説地の立証を有効にする工作を施したことが、現在、宇頭北町が岡崎市と安城市の境界となった発端と聞く。
 宇頭大塚古墳の北方約100m、宇頭北町の荒子古墳は高さ約3m、南北径約25mの円墳でほぼ原形を保っている。(写真3)その西方約100mの北裏古墳は墳形のやや崩れた円墳で、現状は高さ約3m、南北径約20mを測る。(写真4)更に北方約300mの安城市柿碕町の集落の東端にある平塚古墳は、墳丘が低く扁平な形で、高さ約1.3m、南北径約11mの円墳。
 以上安城市柿碕町のも含めて4基の古墳は市境なのであまり知られていないが、宇頭大塚古墳は薬王寺境内、他の3基は住宅地内に点在するので、探しに行っていただきたい。


岡崎市文化財保護審議会委員

山田 伸子