鎌倉街道とは
鎌倉街道と聞くと、「いざ鎌倉」と御家人が鎌倉へ向かうために整備された道を想像するが、この地域では、近世東海道と区別するために用いられる言葉で、中世の東海道を指す。
東海道は、鎌倉時代に入って京都―鎌倉間の連絡や軍勢の移動、年貢など物資の輸送のための道として再整備され、東西両方向の移動・輸送に利用されていた幹線道路(京鎌倉往還)で、幕府にとっては朝廷への使者や六波羅探題への人員が通る道として西向きの通行も大きな意味を持っていたと考えられる。
その経路は、三河・尾張間で近世の東海道よりもやや北側を通る行程で、東海道を岡崎から西へ進んだ尾崎村で北に向かい、現在の安城・知立・豊田市域を通り刈谷市域に至る。市域では東境・西境村を通って境川を越え、尾張国に入る。その後は二村山の山中を通り、鳴海宿の西・山王山で近世東海道のルートと交わる経路となっていた。そのため安城市から大府市にかけては、古街道伝承地を顕彰する碑や道標がいくつも建てられており、八橋は愛知県指定の名勝となっている。また、刈谷市も祖母神社脇を「鎌倉街道伝承地」として市の史跡に指定している。
八橋への想い
鎌倉街道の八橋宿は、鎌倉時代の京都の人々にとっては『伊勢物語』に描かれた場所で、歌枕として多くの歌に詠まれた有名な地であった。平安末期以降、旅行者の記録(日記・紀行文)には、八橋の様子が記されている。彼らは蜘蛛手のように流れる川にかかった八つの橋とそこに咲く杜若の風景を想像していたが、訪れた時期も悪く杜若を見られなかった者も多い(『東関紀行』、『うたたね』ほか)。かかる橋の数も筆者によって一つや二つと認識に違いはあるが、いずれにしても八つもの橋は存在せず、京都で想いを巡らせた風景とは異なっていた。しかし、その後も京都の人たちの八橋・杜若に対する想いは変わらず、天文二年(一五三三)八月、三条西実隆は三河の杜若を後奈良天皇へ献上するほどであった(『お湯殿の上の日記』)。
鎌倉街道の衰退
しかし、鎌倉街道は次第に使用されなくなっていく。山道・峠道を進む起伏のある道であり、二村山は盗賊の出没する危険な場所だと認識されていた(『男衾三郎絵詞』)。八橋も、明応八年(一四九九)五月、緒川の水野為則在所から連れだって八橋見物に行った飛鳥井雅康は、その荒れ果てた様子に落胆したと感想を述べている(『富士歴覧記』)。そのため、旅行者は次第に南方の近世東海道ルートを軸として使用することとなった。
交通網の発達と迂回路
室町時代になると東海道の他にも、河川交通や海路が発達し、多様なルートが開拓されていった。皆が一様に東海道を通るわけではなかったのである。また、そのルートを決定する大きな要因として戦争の影響があった。戦乱の様子を聞きつけてその一帯を避け、遠回りしていくこともあった。
連歌師の宗長は、東三河を通過し本野か原(宝飯郡)で連歌を終えて刈谷の水野近守館に向かう際、矢作・八橋での合戦を避け、三河湾を舟で渡っている(『宗長手記』大永二年五月)。今川家臣の福島範為は京都へ馬を進上するのに、遠江に出陣中の斯波義達の軍勢を避けて信州を回って三河に入り、知多経由でこれを贈った(尊経閣古文書纂 飯尾文書)。かつて鎌倉街道でも盗賊による危険があったように、戦争という生命の危険を脅かす事態は人々を遠ざけさせ、それによって別の道が拓かれたのである。
鎌倉街道の検証
近世には、古街道として鎌倉街道の存在が知られていた(『東海道名所図会』巻三、八橋古蹟項)。幕末に刈谷藩の家老も務めた濱田與四郎は、この古街道の経路を確かめるため、現地でその伝承・由来を尋ね歩いた。そうして作成された「鎌倉街道之図」が泉正寺(刈谷市)に残されている(これは写で原本は別にあったと考えられている)。濱田の作成した「鎌倉街道之図」は、詞書のみの「鎌倉街道之記」(刈谷市蔵、詞書の下書きか)とともに、今日我々が鎌倉街道を探るための重要な資料となっている。
参考文献
『愛知県史 資料編8 中世1』『資料編9 中世2』『資料編10 中世3』(愛知県)
『愛知県史 通史編2 中世1』(愛知県、二〇一八年)。
『愛知県史 通史編3 中世2・織豊』(愛知県、二〇一八年)。
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