徳川家康は生涯で3度の危機があったといわれている。三方ヶ原の戦い、伊賀越え、そして三河一向一揆だ。
 永禄6年(1563)、当時岡崎城主であった松平家康(のちの徳川家康)22歳の秋、現在の岡崎を中心とする西三河で一向一揆は起こった。守護不入の既得権を侵されたとして、一向宗(真宗)の三河三カ寺といわれる「上宮寺」「本證寺」「勝鬘寺」及び土呂の「本宗寺」を拠点として勃発し、約半年間にわたって戦ったといわれている。
 苦慮したのは家康だけではなく、家臣団も同様だった。門徒の家臣は、主君と寺の二者択一を迫られ、他宗派の家臣も同僚と斬り結ばなければならなくなった。三河一向一揆は日本における政教分離のさきがけとなった事件だった。
 今回は、上宮寺・本證寺・勝鬘寺・本宗寺を、三河一向一揆を偲びながら巡る。



上宮寺


上宮寺本堂


 永禄5年(1562)、家康の家臣が上宮寺に押し入り、強引に兵糧を微収した。この狼藉に三河諸寺は憤慨し、一向一揆が勃発したといわれている。最後は疲弊した寺方が敗れ、寺院は破却、僧達は国外へ追放となり、三河では真宗が禁教となった。
 その後、家康の乳母妙春尼の尽力によって天正13年(1585)、三河真宗の復興が許された。上宮寺にはこの激動の時代を語る貴重な文書類が数多く残されているが、当時を偲ぶ建造物はなく、近代的なものに様変わりしていた。境内には妙春尼の墓がひっそりと佇んでいた。


妙春尼の墓


本證寺


本證寺本堂


 本證寺は、二重の堀と土塁が築かれていたため、城郭寺院とも呼ばれている。一揆後、一端は和議が結ばれるが、家康から一方的に出された改宗命令を拒否したため、僧達は追放となり建物も破却されたと伝えられている。一揆の罪が赦免されたのは約20年後。
 現存する建造物のうち最も古く再建されたのは本堂で、以後、鐘楼、裏門、鼓楼、経蔵、庫裏の順となる。そして江戸時代後期にはかつての外堀の位置が掘削され再整備が行われた。現在では蓮の名所として知られている。



勝鬘寺


勝鬘寺本堂

 勝鬘寺は、一揆方の拠点中では岡崎城に最も近く、針崎の地は戦いの第一線場となった。勝鬘寺に立て籠った武士のなかでも、家康家臣で槍半蔵と称された渡辺守綱はその名が知られている。
 永禄7年1月、土呂・針崎の一揆方と家康軍の間で激戦があった。勝鬘寺は家康方の兵火にかかり大伽藍を焼失し、当時住職の了意は信州井上に逃れた。その後、勝鬘寺が復興されるのは天正13年(1585)に家康から寺院復興の安堵状を得てからである。
 三河一向一揆に関する資料は、勝鬘寺にはほとんど残されていないという。


槍半蔵と称された渡辺高綱の墓


本宗寺


本宗寺本堂

 1468年の創建当時、本宗寺は現在の福岡町にあったが、一向一揆の拠点として家康に抵抗したため破壊され、現在地(名鉄美合駅近く)に再建された。
 家康に人質時代から従い、桶狭間の戦い後、駿府に人質となっていた家康の妻子を取り戻した石川数正の墓がある。また、数正の母であり、破壊された本宗寺の再建を家康に願い出た妙西尼もここに眠っている。




境内には、ふるさとの銘木「本宗寺の大松」がある。


取材場所
上宮寺・本證寺・勝鬘寺・本宗寺 Google Map