いざ鎌倉街道へ!
ここ刈谷市東境町と西境町には、鎌倉街道の伝承地やその名残が数多く残されている。「鎌倉街道」は鎌倉周辺に放射状に延びる街道のこと。源頼朝が鎌倉幕府を開いて以来、鎌倉幕府の御家人たちが有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉殿の元に馳せ参じた道だ。鎌倉街道のルートには諸説があり解明されていないところも多いが、だから歴史は面白い。
そこで、今回は中世ロマン香る刈谷市東境町、西境町をぶらりと巡る。
酒井神社(西境町)
かつては酒井神社の境内の北側に境川を渡って尾張国大久伝(豊明市)に通じる鎌倉街道があったといわれている。刈谷藩家老濱田與四郎雅昌が書いた「鎌倉街道之図」には「西境村中を通過」と記述があり、これは現在の境川橋付近にあたるそうだ。酒井神社裏の境川左岸の土手下には、「鎌倉街道西境跡」と刻まれた石碑がある。
永福寺(西境町)
かつて永福寺は鎌倉街道沿いにあった。曹洞宗の寺で、文亀2年(1502)の創建といわれている。はじめは長福寺と呼ばれていたが、江戸時代中期に永福寺と改めた。ここには、天保年間(1830~1844)に寺の東側の一名左義長池を浚ったとき出土した道祖神が供養されている。この道祖神は鎌倉街道沿いに祀られていたという。また、池大雅が書いた木額(秋葉殿)もあり、道祖神とともに市指定文化財である。
祖母神社(東境町)
祖母神社の境内には鎌倉街道伝承地の碑が立つ。記念碑の前を北に向かって鎌倉街道を偲ぶ小道が残っており、そこには鎌倉街道の方角が示された碑もある。祖母神社の元の神社は和銅3年(709)に創建された「白山権現」。神仏混合の時代、大同3年(808)年に白山社内に開基されたと伝来されている永源寺が管理していた。現在もその名残があり、お祭りの日には永源寺境内の鎮守堂の前でお祓いを受けてからお祭行列が出発する。現在は末社として白山社や浅間社がある。
来岸寺(東境町)
慶安3年(1650)に創建された浄土宗の寺院。境内には明治6年(1873)西境村・東境村を学区とする第六番小学境学校が創立されたが、翌明治7年(1874)には西境村の長善寺に移されている。ここには大正2年(1913)に鎌倉街道沿いにあった「金毘羅堂」が境内に移築されていたが、現在は見ることができない。本多家からのご寄付によるお籠がある(現在は刈谷市歴史博物館にて保管)。
泉正寺(東境町)
泉正寺には刈谷藩家老「濱田與四郎雅昌」が書いた「鎌倉街道之図」が所蔵されている。今回は特別に見せてもらえることになった。東境については竜ヶ根池と祖母明神しか記載されていない。「鎌倉街道之図」の後書きにも「児子池(竜ヶ根池)と申す池堤を巡り」とある。また、泉正寺には松平親氏の妻「おこん」と母「高岳院(こうがくいん)」のものと伝えられるお墓が二基並んでいる。境内には、昭和17年(1942)大東亜戦争で鋳造のつり鐘を供出した際に置かれた石の梵鐘もある。
※「鎌倉街道之図」は一般公開されておりません。
永源寺(東境町)
永源寺の創建は大同3年(808)。平安時代前期の天台宗の僧である円澄(えんちょう)によって開基されたお寺だ。鎌倉街道沿いの「白山権現」内に建立されていたといわれている。境内にある鎮守堂は祖母神社の神々様を祀りお守りするために造られたもの。治承3年(1179)兵火のため焼失するが、その後応永年間(1394~1428)松平太郎左衛門により再建される。嘉吉元年(1441)天台宗から曹洞宗に改宗された。享保8年(1723)岩ケ池の氾濫により水害を受け現在の地に移っている。
ちょっと足を伸ばして 岩ケ池公園へ(東境町)
ちょっと足を延ばして春の花が沢山咲いている岩ケ池公園へ。お隣は刈谷ハイウェイオアシス。
フジプロムナード(藤棚)
見頃:4月中旬~下旬
全長200mのフジプロムナードに30本のフジの花が白や淡紫色の長い花房で垂れる
はなもも広場
見頃:3月中旬~4月中旬
多品種のハナモモ58本が赤や白、ピンク色と色鮮やかに咲き乱れる
花壇
見頃:~5月上旬
岩ケ池公園の花壇にはビオラ・チューリップなどが色鮮やかに咲く
※この記事は2021年04月01日時点の情報を元にしています。現在とは内容が異なる場合がございます。