かつて安城には安城城、後に「安祥城」と表記されるようになった城があった。この城をめぐって何度も争いが繰り返された。今回は安城ふるさとガイドの会の方に安祥城址を案内していただきながら、その歴史をたどってみた。
1.ガイドさんと一緒に歩く
安祥城址公園は松平氏四代の居城跡を整備した公園。歴史博物館や市民ギャラリー、埋蔵文化財センターなどもあり、安城の歴史と文化にふれることができる場所だ。
歴史スポットをただぶらりと歩くのも楽しいけれど、逸話などを知っているといっそう興味深く散策できたりする。そこで今回、安城ふるさとガイドの会の方に案内をお願いした。
2.深田に囲まれた森城
市民ギャラリーを出発し、本丸跡(現在の大乗寺)に向かって歩く。その南側の二の丸跡には、現在八幡社が建つ。安祥城は森城とも呼ばれていたそうだ。森とぬかるんだ田に囲まれ、その内側に堀や切岸があって、敵の侵入を防いでいたという。切岸とは斜面を削って作った崖のことで、今も一部が公園内に残っている。大乗寺の前に立ち、かつてそこに建っていた城の姿を思い浮かべた。
3.お城争奪戦の歴史
安祥城は15世紀前半、三河国碧海郡周辺を支配していた和田氏によって築城されたといわれている。文明3年(1471)に三河国岩津城主・松平信光が奪って松平氏の居城にした後、およそ10年間にわたってこの城の争奪戦が続いたという。
16世紀前半に松平氏は岡崎に本拠地を移す。安祥城は安祥松平家の拠点であり続けたが、松平一族の弱体した時期を狙って織田氏が安祥城を攻撃し、織田氏の侵攻に耐えられなくなった松平広忠(徳川家康の父)は、嫡子・竹千代を人質に引き渡す形で今川氏に救援を求め、今川氏の傘下に入る。今川氏は天文18年(1549)に安祥城を奪還。翌年に今川義元が桶狭間の戦いで亡くなり、松平氏は独立する。その後松平氏と織田氏の間で清洲同盟が締結し、安祥城は廃城となった。
まるで大河ドラマのような話を、ガイドさんに案内されながら聞くのは面白い。
4.戦場の武勇伝
本多忠高は、天文18年の戦いで今川軍と共に織田軍と戦った松平軍の武将。敵の矢に当たって討ち死にしたとされる場所に、墓碑が建てられている。また天文14年の戦いの時、長刀を手に勇猛に戦い、織田軍の矢を受けても倒れずに敵をにらみ続けたまま戦死したといわれる善恵坊の碑や、城の争奪戦で亡くなった女性たちを葬ったと伝えられる姫塚も、城址内(公園内)にある。
5.竹千代話「筒井泉跡」
むかし水に恵まれなかったこの地域で、良い水が出たといわれる七つ井(七つの井戸)。天文18年に織田と今川の人質交換が成立し、竹千代が岡崎へ帰る途中安祥城に立ち寄った際、その池の水を飲んで気に入り、竹筒に入れて持っていったと伝えられ、以来この井戸水は筒井と呼ばれているそうだ。七つ井の中で唯一安城市の指定となっている。
今回はガイドさんのお話を聞きながら古戦場となった城址をめぐったことで、戦国時代にタイムスリップしたような気分が味わえた。安城合戦をもう少し広範囲に回るルートもあるので、ゆっくり時間をかけて散策するのもいいだろう。
※この記事は2020年04月01日時点の情報を元にしています。現在とは内容が異なる場合がございます。