碧南市藤井達吉現代美術館リニューアルオープン記念
令和5年(2023)5月2日、ついに碧南市藤井達吉現代美術館がリニューアルオープンした。令和2年(2020)2月よりリニューアル工事のため閉館していたので待ちに待ったリニューアルオープンだと言えるだろう。さらに2023年は碧南市制75周年で藤井達吉現代美術館も開館15周年にあたる年だ。そんな碧南市を訪れ、リニューアルオープンした碧南市藤井達吉現代美術館と生まれた場所や学校など達吉の原点を歩く。
藤井達吉について
明治14年(1881)碧海郡棚尾村(現・碧南市)に生まれ明治25年(1892)までの約11年間をここで過ごした。幼い頃から手先が器用で、“針吉”“凧吉”というあだ名が付けられている。日本近代工芸の先駆者で小原和紙工芸の創始者、瀬戸陶芸の再興に尽力している。手がけた作品は染織・七宝・金工・木工・陶磁など工芸全般から絵画・図案・詩歌にいたるまで広範囲に及ぶ。碧南という郷土が生んだ近代工芸の先駆者、それが藤井達吉である。
藤井達吉の生家へ足を運ぶ
碧南市藤井達吉現代美術館を出て九重味淋を背にまっすぐ進み、橋を渡って左に曲がって、また右に曲がって。しばらくいくと達吉の小径が見えてくる。達吉の小径をさらに進むと達吉の生家があった場所に立札がある。ここで米屋、忠三郎の三男として生まれた達吉。達吉が生活したのはわずか11年ではあるが幼少期の思い出がたくさん詰まった場所である。一家は明治43年(1910)にこの地を離れ東京上野へ引っ越した。
藤井達吉が通っていた学校
実は藤井達吉の通っていた第八学区棚尾尋常小学校は志貴毘沙門天妙福寺の境内にあった。明治21年から25年にかけての4年間、達吉はこの小学校に通っている。妙福寺は聖徳太子作と伝えられる毘沙門像を祀るお堂のあるところから「毘沙門さま」の名前で親しまれている。明治34年(1901)に今の春日町へ移転するまでの28年間棚尾村の文教の中心であった。当時の棚尾小学校は60名程の児童が庫裏と別棟に分かれて授業を受け、子ども達は庫裏を「古学校」、別棟を「本学校」と呼ぶ。別棟の場所は今の水屋に位置している。
碧南を離れた藤井達吉 その後
小学校卒業後、知多郡大野町(現・常滑市)で木綿問屋の尾白商会に奉公に入る。その後服部七宝店に入り、アメリカ合衆国で開催されたルイス・クラーク100周年記念万博博覧会に出席した。その際に訪れたボストン美術館で西洋の美術、そして東洋の美術に出会う。この時に大きな衝撃を受けた達吉は美術工芸の道を歩むことを決意する。ここから藤井達吉の美術工芸家としての人生が始まる。諸芸術について「元来が分類すべからざるもの」と述べていた達吉。過去にとらわれない「総合芸術としての工芸」を提唱し才覚を発揮していく。数多くの個性豊かな作品を生み出した藤井達吉、現在活躍している芸術家にも藤井達吉の弟子は多い。
藤井達吉現代美術館リニューアルしたのはどこ?
藤井達吉の作品
・大島風物図屏風 碧南商工会議所蔵
伊豆大島(東京都)を旅した達吉が、現地の風俗に触発されて制作した。
絣やビロード等の布地、輪郭には紐を縫い付けて伊豆大島の風景を描いている。実は屏風の裏にも絵があり、こちらは墨や柿渋で描いたものである。
その他のリニューアル
・収蔵庫の増設
・授乳室の設置
・保存修復室の設置
・搬入口(2ヶ所のシャッター)の設置
碧南市をぶらぶら歩いて芸術を楽しむ
碧南に来たなら碧南市藤井達吉現代美術館とその周辺をぶらぶらと歩いてみてほしい。
散歩していると黒壁や細い道、昔ながらの風景が芸術的感性を刺激してくれる。
もしかすると、ここから芸術の扉は開くのかもしれない。
※この記事は2023年07月01日時点の情報を元にしています。現在とは内容が異なる場合がございます。