三河すーぱー絵解き座 梛野さんとゆく西尾のお寺
さまざまなお寺で語り継がれる御絵伝。ここには民衆に広く仏法を解き広める工夫が散りばめられている。今回は本澄寺のご住職である三河すーぱー絵解き座の梛野さんの琵琶の音色と共に、聖徳太子・親鸞聖人の絵解きを行っていただき、ゆかりのある西尾のお寺を訪れる。
善福寺
かつては天台宗であったが浄土真宗に改宗。聖徳太子ゆかりのお寺で、脇壇の太子像は二歳の南無仏太子像といわれ、市指定文化財となっている。また、善福寺には大正13年に当時のご住職が書き写された聖徳太子御絵伝も所蔵されている。
※今回は特別に取材許可を頂いております。
聖運寺
かつては真言宗であったが親鸞聖人の教化により浄土真宗に改宗。境内には樹高15メートルほどの市指定天然記念物イブキや、シイタケ、木炭などの殖産興業で名高い田中長嶺筆の句碑がある。ここには慶長8年(1603)作の親鸞聖人四幅御絵伝が所蔵されている。報恩講にて御絵伝を掛け、「親鸞聖人のご恩徳」を偲ぶ。
本澄寺
創建は天和4(1684)年以前。古くから地域の集いの場として親しまれ、本澄寺本堂は令和3年の建立。ご住職は三河すーぱー絵解き座の座長、梛野さん。
琵琶の音色と共に、絵解きに触れよう
■お念仏の称えはじまり
今を去る事一千四百有余年の古(いにしえ)二歳の二月十五日の暁に玉照姫(たまてるひめ)の懐より這い出でさせられ両手を合わせ「南無仏南無仏南無仏」と三遍お念仏遊ばされたこれが我が国における合掌の始まりでありお念仏の称えはじまりなり。
■聖徳太子絵伝(善福寺蔵)
三歳の三月三日、聖徳太子は御殿の御庭をお散歩遊ばした。御父上は枝もたわわと咲き乱れる桃と松をお示しになり、「そなたは桃を好むか松を選ぶか、どちらか一つをよりだすがよかろう」と仰せ遊ばした。お太子様は松を御選び遊ばした。御父上「何がゆえ松を選び給うたか」と。お太子様は「桃は一端の栄木(えいぼく)也、松は万年の定木(ていぼく)也」。桃は綺麗であるがほんの一瞬、松は暑い夏も、寒い冬でも、雪が降ろうが、霜が降りようが、色を変えない松の緑を弥陀の本願と御喩え遊ばしてお謡い遊ばした「草も木も枯れたる野辺に唯一人松のみ残る弥陀の本願」。草花が枯れようが木の葉が色を変えようが散っていこうが四季を通じて色を変えない松の緑を弥陀の本願と御喩え遊ばされたのが聖徳太子三歳の三月三日の出来事なり。
■親鸞聖人御絵伝(聖運寺蔵)
仏門を叩く親鸞聖人九つの春、慈円僧正は当初この得度を断る算段であった。しかし親鸞聖人の真っ直ぐな眼差しに胸打たれ、この御子だけは特例を設け得度を許そうと「十五歳にならないと得度が許されない。じゃが僅か九つの幼児(おさなご)が出家になろうとはいかにも殊勝千万、得度を許すが今宵は日も暮れた、明日の朝得度の儀式挙げてやろうぞ」と仰せ遊ばせば「あなた方お坊様は口を開けば出る息は入るを待たずと仰る。表の桜を御覧ください。爛漫と咲いておる、明日はこの目和えで花見酒と思えども、無上の嵐に誘われりゃ、散るではございませんか、花に譬えてみれば僅か九つ莟同然「明日ありと思う心の仇桜夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかは」とおうたい遊ばし御得度が許されいよいよ比叡山にお上がり遊ばすのでございます。
絵解きってなあに?
仏教の教えを絵画によって表現し観る者に語りかけること。日本人と仏教の結びつきを誰にでもわかるように伝える話芸。中世から近世にかけて次第に盛んになり、魅力的な作品が数多く生み出されている。
三河すーぱー絵解き座とは
2005年に開催された愛知万博に向けて「仏教は文化と情操の面で社会的存在であり得るのか」という課題から活動を開始。立場を超えて共感する有志らが集結し、“三河すーぱー絵解き座” を旗揚げする。日本人と仏教の結びつきを誰にでもわかるように伝える話芸の継承集団。
※御絵伝は特別に取材許可を頂いております。
※この記事は2023年01月01日時点の情報を元にしています。現在とは内容が異なる場合がございます。