刈谷城は、徳川家康公の生母於大の父親である水野忠政により、天文2年(1533)に築城された。江戸時代には刈谷藩が置かれ、刈谷城を中心に城下町が形成され発展を遂げていった。刈谷城は、現在産業都市として発展を続ける刈谷の町の成り立ちの原点といえる。現在の亀城公園の場所が当時の本丸部分に当たる。江戸時代中期ごろの刈谷城下町ジオラマを見ると、現在の城下町は随分様変わりしているが、当時を偲ばせる史跡などが点在している。江戸時代の城下町を偲びながら刈谷城跡界隈を歩いてみた。



郷土資料館


郷土資料館


郷土資料館敷地内にある刈谷城三の丸跡石碑

 旧城下町を巡るには、刈谷市内の観光マップなどが置かれている郷土資料館で情報を得るといいだろう。この建物は、亀城小学校の旧本館の建物で昭和3年に完成し、その後、郷土資料館として昭和55年に開館した。平成11年には国の登録文化財に登録されている。




刈谷城跡(亀城公園内)


 明治4年の廃藩置県後、刈谷城は政府の所有となり、城郭の建造物は取り払われた。大正2年になって大野介蔵に売却され、亀城殖産合資会社を創設し、旧城跡を永久に保存することになった。昭和11年に、町から旧城跡を公園にしたいと意見書が出され、刈谷町に売り渡され、昭和25年には都市計画公園に指定され、現在の亀城公園となった。
 江戸時代中期までの刈谷城図によると、刈谷城に天守閣はなかったが、本丸の北西と南東の角にそれぞれ2層の櫓があった。その後、櫓は取り壊され、後期の時代には櫓はなくなっている。正保の城絵図によると、本丸の大きさは東西27間×南北45間で、ほぼ長方形の形をしており、周囲は土居と石垣によって囲まれていた。第二次世界大戦中には高射砲陣地となった。




亀城公園

刈谷城跡石碑(亀城公園内)


十朋亭(亀城公園内)


 十朋亭は、刈谷城本丸跡に士族会員の会合場所として大野介蔵が大正5年に建てたもの。十朋亭の命名は、岡鹿門により、中国の四書五経のひとつである易経にある「十朋之亀弗克違」(十朋の亀違うにあたわず、必ず吉占いを得るだろうの意)から引用された。現在の建物は、石田退三の寄付を受けて昭和47年に改築された。


十朋亭(亀城公園内)

十朋亭内にある江戸中期頃の刈谷城ジオラマ


市原稲荷神社


 白雉4年(653)亀狭山に瑞兆(めでたいしるし)が現れ、その地に社殿を建てたのがはじまりといわれている。永正年中(1504~1521)に市原の地に移し、永禄3年(1560)今川義元の敗走兵によって兵火にあい、同5年に社殿を再建した。代々の刈谷藩主は、市原稲荷神社に社領を安堵(その土地の支配を与えること)していた。


市原稲荷神社

市原稲荷神社社殿


町口門跡


町口門跡石碑

 肴町と本町の通りを降りてきたところに広くつながった広場があり、そこから階段を昇って町口門を通って城内に入った。門を入った左手に番所が置かれていた。鑑札を願い出た者に町口門通り札を渡し、城内での商売を許した。


秋葉社(万燈祭発祥の地)


 宝暦6年(1756)この地に秋葉堂が建てられ、翌年から祭りが行われた。安永7年(1778)になって各町組ごとの出し物に、笛・太鼓で拍子をとる形態に変わり、この年初めて万燈が登場した。各町の出し物は次第に万燈に統一され、秋葉祭礼は万燈祭といわれるようになった。万燈祭は県指定文化財となっている。


椎の木屋敷跡


 椎の木屋敷は、椎の木が数多く茂っていたためいつの代からか椎の木屋敷と呼ばれていた。藩政期には霊地として一般の人の出入は禁じられ中央に五輪塔が数基あったという。初代の刈谷藩主である水野忠政の娘である於大の方が岡崎城主松平広忠に嫁いで竹千代(徳川家康公)を生み、後に離縁になって刈谷に帰されこの地に住まわれた。政略のための犠牲であった。


椎の木屋敷跡石碑

椎の木屋敷跡内にある於大の方石像


大手門跡


刈谷城大手門跡石碑

 大手門とは、城の表正門にあたる門のことで、門の前には番所があった。ここを通ることができるのは藩士のみだった。現在は郷土資料館に隣接する亀城小学校の敷地内に石碑が残されている。


取材場所
刈谷市 刈谷城跡周辺 Google Map